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怪異・幻想青空文庫 図書カード No.624

さんげつき

山月記

中島 敦 著

隴西の李徴は若くして進士に登第した俊才であったが、詩人としての名声を求め官を辞す。しかし困窮と失意の果てに発狂し、消息を絶つ。翌年、監察御史の袁傪は山道で猛虎に襲われるが、虎は旧友・李徴の声で語りかけてきた。
全103画面で、一文ずつめくる名文読書。

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書誌情報・読書目安

初出
1942(昭和17)年
読了目安
約6分(全103画面)
文字遣い
新字新仮名
底本
底本:『李陵・山月記』新潮文庫、新潮社
入力・校正
入力:林弘美 校正:富田倫生
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文章の目次

103 CHUNKS
CHAPTER

一

俊才の失踪と月夜の怪

  1. 01

    隴西ろうさいの李徴りちょうは博学才穎さいえい、天宝の末年、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉こうなんいに補せられたが、性、狷介けんかい、自みずから恃たのむところ頗すこぶる厚く、賤吏せんりに甘んずるを潔いさぎよしとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山こざん、犍略かくりゃくに帰臥きがし、人と交まじわりを絶って、ひたすら詩作に耽ふけった。下吏となって長く膝ひざを俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺のこそうとしたのである。

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  2. 02

    しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐おうて苦しくなる。李徴は漸ようやく焦躁しょうそうに駆られて来た。この頃ころからその容貌ようぼうも峭刻しょうこくとなり、肉落ち骨秀ひいで、眼光のみ徒いたずらに炯々けいけいとして、曾かつて進士に登第とうだいした頃の豊頬ほうきょうの美少年の俤おもかげは、何処どこに求めようもない。

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  3. 03

    数年の後、貧窮に堪たえず、妻子の衣食のために遂ついに節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。

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  4. 04

    一方、これは、己おのれの詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥はるか高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙しがにもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才しゅんさい李徴の自尊心を如何いかに傷きずつけたかは、想像に難かたくない。彼は怏々おうおうとして楽しまず、狂悖きょうはいの性は愈々いよいよ抑え難がたくなった。

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  5. 05

    一年の後、公用で旅に出、汝水じょすいのほとりに宿った時、遂に発狂した。或ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇やみの中へ駈出かけだした。彼は二度と戻もどって来なかった。

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  6. 06

    附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰だれもなかった。翌年、監察御史かんさつぎょし、陳郡ちんぐんの袁犍えんさんという者、勅命を奉じて嶺南れいなんに使つかいし、途みちに商於しょうおの地に宿った。

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  7. 07

    次の朝未まだ暗い中うちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎ひとくいどらが出る故ゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜よろしいでしょうと。袁犍は、しかし、供廻ともまわりの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥しりぞけて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎もうこが叢くさむらの中から躍り出た。虎は、あわや袁犍に躍りかかるかと見えたが、忽たちまち身を飜ひるがえして、元の叢に隠れた。

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  8. 08

    叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟つぶやくのが聞えた。その声に袁犍は聞き憶おぼえがあった。驚懼きょうくの中にも、彼は咄嗟とっさに思いあたって、叫んだ。

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  9. 09

    「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

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  10. 10

    袁犍は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。

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  11. 11

    温和な袁犍の性格が、峻峭しゅんしょうな李徴の性情と衝突しなかったためであろう。叢の中からは、暫しばらく返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微かすかな声が時々洩もれるばかりである。ややあって、低い声が答えた。

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  12. 12

    「如何にも自分は隴西の李徴である」と。袁犍は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐なつかしげに久闊きゅうかつを叙した。そして、何故なぜ叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。

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  13. 13

    自分は今や異類の身となっている。

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  14. 14

    どうして、おめおめと故人ともの前にあさましい姿をさらせようか。

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  15. 15

    かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭いふけんえんの情を起させるに決っているからだ。

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  16. 16

    しかし、今、図らずも故人に遇あうことを得て、愧赧きたんの念をも忘れる程に懐かしい。

    ↗
  17. 17

    どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭いとわず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。

    ↗
  18. 18

    後で考えれば不思議だったが、その時、袁犍は、この超自然の怪異を、実に素直に受容うけいれて、少しも怪もうとしなかった。

    ↗
  19. 19

    彼は部下に命じて行列の進行を停とめ、自分は叢の傍かたわらに立って、見えざる声と対談した。

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  20. 20

    都の噂うわさ、旧友の消息、袁犍が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。

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  21. 21

    青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等らが語られた後、袁犍は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊たずねた。草中の声は次のように語った。

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  22. 22

    今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼めを覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻しきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。

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  23. 23

    無我夢中で駈けて行く中に、何時いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫つかんで走っていた。

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  24. 24

    何か身体からだ中に力が充みち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。

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  25. 25

    気が付くと、手先や肱ひじのあたりに毛を生じているらしい。

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  26. 26

    少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。

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  27. 27

    自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。

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  28. 28

    夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。

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  29. 29

    どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。そうして懼おそれた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

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  30. 30

    しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、

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  31. 31

    理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直すぐに死を想おもうた。

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  32. 32

    しかし、その時、眼の前を一匹の兎うさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。

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  33. 33

    再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗まみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。

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  34. 34

    これが虎としての最初の経験であった。

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CHAPTER

二

草叢の声と告白

  1. 35

    それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。

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  2. 36

    ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還かえって来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操あやつれれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書けいしょの章句を誦そらんずることも出来る。その人間の心で、虎としての己おのれの残虐ざんぎゃくな行おこないのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤いきどおろしい。

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  3. 37

    しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。

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  4. 38

    今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。

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  5. 39

    これは恐しいことだ。今少し経たてば、己おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋うもれて消えて了しまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎いしずえが次第に土砂に埋没するように。

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  6. 40

    そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人ともと認めることなく、君を裂き喰くろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他ほかのものだったんだろう。

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  7. 41

    初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、

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  8. 42

    初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?

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  9. 43

    いや、そんな事はどうでもいい。

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  10. 44

    己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。

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  11. 45

    だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。

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  12. 46

    ああ、全く、どんなに、恐しく、哀かなしく、切なく思っているだろう!

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  13. 47

    己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。

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  14. 48

    誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。

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  15. 49

    ところで、そうだ。

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  16. 50

    己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。

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  17. 51

    袁犍はじめ一行は、息をのんで、叢中そうちゅうの声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。他でもない。

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  18. 52

    自分は元来詩人として名を成す積りでいた。

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  19. 53

    しかも、業未いまだ成らざるに、この運命に立至った。

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  20. 54

    曾て作るところの詩数百篇ぺん、固もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚なお記誦きしょうせるものが数十ある。これを我が為ために伝録して戴いただきたいのだ。何も、これに仍よって一人前の詩人面づらをしたいのではない。

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  21. 55

    作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

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  22. 56

    袁犍は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随したがって書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。

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  23. 57

    長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。

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  24. 58

    しかし、袁犍は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。

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  25. 59

    成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。

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  26. 60

    しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲あざけるか如ごとくに言った。

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  27. 61

    羞はずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己おれは、己の詩集が長安ちょうあん風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。

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  28. 62

    岩窟がんくつの中に横たわって見る夢にだよ。嗤わらってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。

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  29. 63

    (袁犍は昔の青年李徴の自嘲癖じちょうへきを思出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。

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  30. 64

    お笑い草ついでに、今の懐おもいを即席の詩に述べて見ようか。

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  31. 65

    この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。

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  32. 66

    袁犍は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。

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  33. 67

    偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

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  34. 68

    我為異物蓬茅下 君已乗犍気勢豪此夕渓山対明月 不成長嘯但成犍

    ↗
CHAPTER

三

月に咆ゆる虎

  1. 69

    時に、残月、光冷ひややかに、白露は地に滋しげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖はっこうを嘆じた。李徴の声は再び続ける。

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  2. 70

    何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依よれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己おれは努めて人との交まじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。

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  3. 71

    実は、それが殆ほとんど羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。

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  4. 72

    己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍ごすることも潔いさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。己おのれの珠たまに非あらざることを惧おそれるが故ゆえに、敢あえて刻苦して磨みがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとして瓦かわらに伍することも出来なかった。

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  5. 73

    己おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもんと慙恚ざんいとによって益々ますます己おのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

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  6. 74

    人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。

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  7. 75

    己おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

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  8. 76

    これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、

    ↗
  9. 77

    内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

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  10. 78

    今思えば、全く、己は、己の有もっていた僅わずかばかりの才能を空費して了った訳だ。

    ↗
  11. 79

    人生は何事をも為なさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄ろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょうな危惧きぐと、刻苦を厭いとう怠惰とが己の凡すべてだったのだ。

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  12. 80

    己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、

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  13. 81

    堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼やかれるような悔を感じる。

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  14. 82

    己には最早人間としての生活は出来ない。

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  15. 83

    たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、

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  16. 84

    どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎ひごとに虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は?

    ↗
  17. 85

    己は堪たまらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖いわに上り、空谷くうこくに向って吼ほえる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処あそこで月に向って咆ほえた。誰かにこの苦しみが分って貰もらえないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯ただ、懼おそれ、ひれ伏すばかり。

    ↗
  18. 86

    山も樹きも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮たけっているとしか考えない。

    ↗
  19. 87

    天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。

    ↗
  20. 88

    ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易やすい内心を誰も理解してくれなかったように。

    ↗
  21. 89

    己の毛皮の濡ぬれたのは、夜露のためばかりではない。漸く四辺あたりの暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処どこからか、暁角ぎょうかくが哀しげに響き始めた。最早、別れを告げねばならぬ。

    ↗
  22. 90

    酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。

    ↗
  23. 91

    だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。

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  24. 92

    彼等かれらは未まだ犍略かくりゃくにいる。固より、己の運命に就いては知る筈はずがない。

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  25. 93

    君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。

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  26. 94

    決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐あわれんで、今後とも道塗どうとに飢凍きとうすることのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖おんこう、これに過ぎたるは莫ない。言終って、叢中から慟哭どうこくの声が聞えた。袁もまた涙を泛うかべ、欣よろこんで李徴の意に副そいたい旨むねを答えた。李徴の声はしかし忽たちまち又先刻の自嘲的な調子に戻もどって、言った。

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  27. 95

    本当は、先まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。

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  28. 96

    飢え凍えようとする妻子のことよりも、己おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕おとすのだ。そうして、附加つけくわえて言うことに、袁犍が嶺南からの帰途には決してこの途みちを通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人ともを認めずに襲いかかるかも知れないから。

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  29. 97

    又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方こちらを振りかえって見て貰いたい。

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  30. 98

    自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。

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  31. 99

    我が醜悪な姿を示して、以もって、再び此処ここを過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。

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  32. 100

    袁犍は叢に向って、懇ねんごろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、又、堪たえ得ざるが如き悲泣ひきゅうの声が洩もれた。袁犍も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。

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  33. 101

    一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺ながめた。

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  34. 102

    忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。

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  35. 103

    虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

    ↗