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告白・独白青空文庫 図書カード No.301

にんげんしっかく

人間失格

太宰 治 著

「恥の多い生涯を送って来ました。」自分には、人間の営みというものがまるで見当がつかない。他者への恐怖と疎外感に怯えながら、破滅へと向かう主人公・葉蔵が、人間への最後の求愛として身につけた「道化」の告白。
全321画面で、一文ずつめくる名文読書。

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書誌情報・読書目安

初出
1948(昭和23)年
読了目安
約7分(全321画面)
文字遣い
新字新仮名
底本
底本:『人間失格』新潮文庫、新潮社
入力・校正
入力:富田倫生 校正:もりみつじゅんじ
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文章の目次

321 CHUNKS
CHAPTER

一

はしがき・三枚の写真

  1. 01

    はしがき私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

    ↗
  2. 02

    一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。

    ↗
  3. 03

    醜く?

    ↗
  4. 04

    けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、

    ↗
  5. 05

    面白くも何とも無いような顔をして、「可愛い坊ちゃんですね」

    ↗
  6. 06

    といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」

    ↗
  7. 07

    みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、

    ↗
  8. 08

    いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、

    ↗
  9. 09

    「なんて、いやな子供だ」

    ↗
  10. 10

    と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。

    ↗
  11. 11

    まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、

    ↗
  12. 12

    イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。

    ↗
  13. 13

    どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。

    ↗
  14. 14

    その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。

    ↗
  15. 15

    人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。

    ↗
  16. 16

    猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」

    ↗
  17. 17

    とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、

    ↗
  18. 18

    どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。

    ↗
  19. 19

    私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。

    ↗
  20. 20

    第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生の姿である。

    ↗
  21. 21

    高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、

    ↗
  22. 22

    とにかく、おそろしく美貌の学生である。

    ↗
  23. 23

    しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。

    ↗
  24. 24

    学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。

    ↗
  25. 25

    こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、

    ↗
  26. 26

    しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、

    ↗
  27. 27

    そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、

    ↗
  28. 28

    羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。

    ↗
  29. 29

    つまり、一から十まで造り物の感じなのである。

    ↗
  30. 30

    キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。

    ↗
  31. 31

    ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。

    ↗
  32. 32

    しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、

    ↗
  33. 33

    どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。

    ↗
  34. 34

    私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。

    ↗
  35. 35

    もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。

    ↗
  36. 36

    まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。

    ↗
  37. 37

    それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、

    ↗
  38. 38

    その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。

    ↗
  39. 39

    どんな表情も無い。

    ↗
  40. 40

    謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、

    ↗
  41. 41

    まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。

    ↗
  42. 42

    奇怪なのは、それだけでない。

    ↗
  43. 43

    その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。

    ↗
  44. 44

    特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。

    ↗
  45. 45

    既に私はこの顔を忘れている。

    ↗
  46. 46

    部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、

    ↗
  47. 47

    その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。

    ↗
  48. 48

    画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。

    ↗
  49. 49

    あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。

    ↗
  50. 50

    極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。

    ↗
  51. 51

    そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。

    ↗
  52. 52

    所謂いわゆる「死相」

    ↗
  53. 53

    というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、

    ↗
  54. 54

    人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、

    ↗
  55. 55

    とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。

    ↗
  56. 56

    私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。

    ↗
  57. 57

    恥の多い生涯を送って来ました。

    ↗
  58. 58

    自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

    ↗
  59. 59

    自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。

    ↗
  60. 60

    自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、

    ↗
  61. 61

    そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、

    ↗
  62. 62

    ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、

    ↗
  63. 63

    ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。

    ↗
  64. 64

    しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、

    ↗
  65. 65

    それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、

    ↗
  66. 66

    のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、

    ↗
  67. 67

    にわかに興が覚めました。

    ↗
  68. 68

    また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、

    ↗
  69. 69

    実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、

    ↗
  70. 70

    地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。

    ↗
  71. 71

    自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、

    ↗
  72. 72

    枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、

    ↗
  73. 73

    それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、

    ↗
  74. 74

    人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

    ↗
  75. 75

    また、自分は、空腹という事を知りませんでした。

    ↗
  76. 76

    いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、

    ↗
  77. 77

    そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」

    ↗
  78. 78

    という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。

    ↗
  79. 79

    へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。

    ↗
  80. 80

    小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、

    ↗
  81. 81

    おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、

    ↗
  82. 82

    学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう?

    ↗
  83. 83

    カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、

    ↗
  84. 84

    自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、

    ↗
  85. 85

    甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、

    ↗
  86. 86

    ちっともわかっていやしなかったのです。

    ↗
  87. 87

    自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。

    ↗
  88. 88

    めずらしいと思われたものを食べます。

    ↗
  89. 89

    豪華と思われたものを食べます。

    ↗
  90. 90

    また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。

    ↗
  91. 91

    そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。

    ↗
  92. 92

    自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳ぜんを二列に向い合せに並べて、

    ↗
  93. 93

    末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、

    ↗
  94. 94

    昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、

    ↗
  95. 95

    自分はいつも肌寒い思いをしました。

    ↗
  96. 96

    それに田舎の昔気質かたぎの家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、

    ↗
  97. 97

    めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、

    ↗
  98. 98

    いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。

    ↗
  99. 99

    自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、

    ↗
  100. 100

    押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、

    ↗
  101. 101

    実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、

    ↗
  102. 102

    家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、

    ↗
  103. 103

    食べたくなくても無言でごはんを噛かみながら、うつむき、

    ↗
  104. 104

    家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。

    ↗
  105. 105

    めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、

    ↗
  106. 106

    ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。

    ↗
  107. 107

    その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、

    ↗
CHAPTER

二

第一の手記・恥の多い生涯

  1. 108

    いつも自分に不安と恐怖を与えました。

    ↗
  2. 109

    人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

    ↗
  3. 110

    つまり自分には、人間の営みというものが未いまだに何もわかっていない、という事になりそうです。

    ↗
  4. 111

    自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。

    ↗
  5. 112

    自分は、いったい幸福なのでしょうか。

    ↗
  6. 113

    自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、

    ↗
  7. 114

    自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、

    ↗
  8. 115

    比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。

    ↗
  9. 116

    自分には、禍わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、

    ↗
  10. 117

    隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、

    ↗
  11. 118

    思った事さえありました。つまり、わからないのです。

    ↗
  12. 119

    隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。

    ↗
  13. 120

    プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、

    ↗
  14. 121

    しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、

    ↗
  15. 122

    吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、

    ↗
  16. 123

    わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、

    ↗
  17. 124

    政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか?

    ↗
  18. 125

    エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、

    ↗
  19. 126

    いちども自分を疑った事が無いんじゃないか?

    ↗
  20. 127

    それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかいなのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金?

    ↗
  21. 128

    まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、

    ↗
  22. 129

    という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、

    ↗
  23. 130

    という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……

    ↗
  24. 131

    いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、

    ↗
  25. 132

    わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。

    ↗
  26. 133

    自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。

    ↗
  27. 134

    何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

    ↗
  28. 135

    そこで考え出したのは、道化でした。

    ↗
  29. 136

    それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。

    ↗
  30. 137

    自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、

    ↗
  31. 138

    どうしても思い切れなかったらしいのです。

    ↗
  32. 139

    そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。

    ↗
  33. 140

    おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、

    ↗
  34. 141

    それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。

    ↗
  35. 142

    自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、

    ↗
  36. 143

    またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、

    ↗
  37. 144

    ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。

    ↗
  38. 145

    つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。

    ↗
  39. 146

    その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、

    ↗
  40. 147

    他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、

    ↗
  41. 148

    必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。

    ↗
  42. 149

    これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。

    ↗
  43. 150

    また自分は、肉親たちに何か言われて、口応くちごたえした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には霹靂へきれきの如く強く感ぜられ、

    ↗
  44. 151

    狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」

    ↗
  45. 152

    とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、

    ↗
  46. 153

    もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。

    ↗
  47. 154

    だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。

    ↗
  48. 155

    人から悪く言われると、いかにも、もっとも、

    ↗
  49. 156

    自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、

    ↗
  50. 157

    いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。

    ↗
  51. 158

    それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子ししよりも鰐わによりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。

    ↗
  52. 159

    ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、

    ↗
  53. 160

    たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、

    ↗
  54. 161

    尻尾しっぽでピシッと腹の虻あぶを打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え、

    ↗
  55. 162

    この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、

    ↗
  56. 163

    ほとんど自分に絶望を感じるのでした。

    ↗
  57. 164

    人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、

    ↗
  58. 165

    みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、

    ↗
  59. 166

    その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、

    ↗
  60. 167

    自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。

    ↗
  61. 168

    何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」

    ↗
  62. 169

    の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、

    ↗
  63. 170

    彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空そらだ、

    ↗
  64. 171

    というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、

    ↗
  65. 172

    また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、

    ↗
  66. 173

    必死のお道化のサーヴィスをしたのです。

    ↗
  67. 174

    自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました。

    ↗
  68. 175

    めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、

    ↗
  69. 176

    「それあ、葉ちゃん、似合わない」

    ↗
  70. 177

    と、可愛くてたまらないような口調で言いました。

    ↗
  71. 178

    なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど、いくら何でも、

    ↗
  72. 179

    そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。

    ↗
  73. 180

    姉の脚絆レギンスを両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、以もってセエターを着ているように見せかけていたのです。

    ↗
  74. 181

    自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、

    ↗
  75. 182

    月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また親戚しんせきの者たちにまで、

    ↗
  76. 183

    実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。

    ↗
  77. 184

    いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖てちょうに書きとめるのでした。

    ↗
  78. 185

    父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。

    ↗
  79. 186

    「葉蔵は?」と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。

    ↗
  80. 187

    何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。

    ↗
  81. 188

    どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、

    ↗
  82. 189

    ちらと動くのです。

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  83. 190

    と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、

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  84. 191

    それを拒む事も出来ませんでした。

    ↗
  85. 192

    イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味あじわい、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。

    ↗
  86. 193

    つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。

    ↗
  87. 194

    これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」

    ↗
  88. 195

    の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。

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  89. 196

    自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、

    ↗
  90. 197

    「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、

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  91. 198

    子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」

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  92. 199

    欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。

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  93. 200

    お道化た返事も何も出来やしないんです。

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  94. 201

    お道化役者は、完全に落第でした。「本が、いいでしょう」

    ↗
  95. 202

    長兄は、まじめな顔をして言いました。「そうか」

    ↗
  96. 203

    父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。

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  97. 204

    何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐ふくしゅうは、きっと、

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  98. 205

    おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、

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  99. 206

    とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、

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  100. 207

    父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、

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  101. 208

    パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、

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  102. 209

    シシマイ、と書いて寝ました。

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  103. 210

    自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。

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  104. 211

    かえって、本のほうがいいくらいでした。

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  105. 212

    けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、

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  106. 213

    父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、

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  107. 214

    客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。

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CHAPTER

三

道化という名の仮面

  1. 215

    そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。

    ↗
  2. 216

    やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。

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  3. 217

    「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。

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  4. 218

    これは、私の字ではない。はてな?と首をかしげて、思い当りました。

    ↗
  5. 219

    これは、葉蔵のいたずらですよ。

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  6. 220

    あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、

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  7. 221

    どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。

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  8. 222

    何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。

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  9. 223

    知らん振りして、ちゃんと書いている。

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  10. 224

    そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。

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  11. 225

    私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。

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  12. 226

    葉蔵を早くここへ呼びなさい」

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  13. 227

    また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶めちゃくちゃにピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目でたらめの曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。

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  14. 228

    次兄は、フラッシュを焚たいて、自分のインデヤン踊りを撮影して、

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  15. 229

    その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗さらさの風呂敷でした)の合せ目から、

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  16. 230

    小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。

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  17. 231

    自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。

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  18. 232

    自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他ほかにも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談、講談、落語、江戸小咄こばなしなどの類にも、かなり通じていましたから、剽軽ひょうきんな事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。

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  19. 233

    しかし、嗚呼ああ、学校!自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。

    ↗
  20. 234

    尊敬されるという観念もまた、甚はなはだ自分を、おびえさせました。

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  21. 235

    ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、

    ↗
  22. 236

    木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」

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  23. 237

    という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」

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  24. 238

    ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、

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  25. 239

    そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、

    ↗
  26. 240

    その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。

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  27. 241

    想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。

    ↗
  28. 242

    自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」

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  29. 243

    事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。

    ↗
  30. 244

    自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、

    ↗
  31. 245

    また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、

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  32. 246

    それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、

    ↗
  33. 247

    学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」

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  34. 248

    いるようでした。

    ↗
  35. 249

    からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、

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  36. 250

    学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、

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  37. 251

    休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。

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  38. 252

    また、綴り方には、滑稽噺こっけいばなしばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。

    ↗
  39. 253

    先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。

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  40. 254

    或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、

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  41. 255

    おしっこを客車の通路にある痰壺たんつぼにしてしまった失敗談(しかし、

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  42. 256

    その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。

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  43. 257

    子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、

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  44. 258

    ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、

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  45. 259

    きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、

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  46. 260

    そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、

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  47. 261

    他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、

    ↗
  48. 262

    クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、

    ↗
  49. 263

    顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、

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  50. 264

    さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。

    ↗
  51. 265

    お茶目。自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。

    ↗
  52. 266

    尊敬される事から、のがれる事に成功しました。

    ↗
  53. 267

    通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、

    ↗
  54. 268

    六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。

    ↗
  55. 269

    けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡およそ対蹠たいせき的なものでした。その頃、既に自分は、女中や下男から、哀かなしい事を教えられ、犯されていました。

    ↗
  56. 270

    幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、

    ↗
  57. 271

    残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。

    ↗
  58. 272

    しかし、自分は、忍びました。

    ↗
  59. 273

    これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。

    ↗
  60. 274

    もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、

    ↗
  61. 275

    彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、

    ↗
  62. 276

    自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。

    ↗
  63. 277

    人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。

    ↗
  64. 278

    父に訴えても、母に訴えても、お巡まわりに訴えても、政府に訴えても、

    ↗
  65. 279

    結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。

    ↗
  66. 280

    必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮しょせん、人間に訴えるのは無駄である、

    ↗
  67. 281

    自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、

    ↗
  68. 282

    無い気持なのでした。なんだ、人間への不信を言っているのか?へえ?

    ↗
  69. 283

    お前はいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人も或いはあるかも知れませんが、

    ↗
  70. 284

    しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、

    ↗
  71. 285

    自分には思われるのですけど。

    ↗
  72. 286

    現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で、

    ↗
  73. 287

    エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。

    ↗
  74. 288

    やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、

    ↗
  75. 289

    この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。

    ↗
  76. 290

    満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、

    ↗
  77. 291

    見えて、大いに拍手などしていました。

    ↗
  78. 292

    演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、

    ↗
  79. 293

    クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。

    ↗
  80. 294

    中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。

    ↗
  81. 295

    父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、

    ↗
  82. 296

    とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。

    ↗
  83. 297

    そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、

    ↗
  84. 298

    今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。

    ↗
  85. 299

    下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、

    ↗
  86. 300

    と言ってけろりとしているのです。

    ↗
  87. 301

    演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々みちみち、下男たちが嘆き合っていたのです。

    ↗
  88. 302

    しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。

    ↗
  89. 303

    互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、

    ↗
  90. 304

    あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、

    ↗
  91. 305

    それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。

    ↗
  92. 306

    けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。

    ↗
  93. 307

    自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。

    ↗
  94. 308

    自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。

    ↗
  95. 309

    自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、

    ↗
  96. 310

    或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。

    ↗
  97. 311

    人間は、ついに自分にその妙諦みょうていを教えてはくれませんでした。

    ↗
  98. 312

    それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、

    ↗
  99. 313

    必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。

    ↗
  100. 314

    人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを嘗なめずにすんだのでしょう。

    ↗
  101. 315

    つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、

    ↗
  102. 316

    誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、

    ↗
  103. 317

    また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、

    ↗
  104. 318

    葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。

    ↗
  105. 319

    父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。

    ↗
  106. 320

    そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅かぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。

    ↗
  107. 321

    つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。

    ↗