さくらのもりのまんかいのした
桜の森の満開の下
坂口 安吾 著
昔、鈴鹿峠の山賊は、満開の桜の森を通ることを何よりも恐れていた。桜の森の満開の下には、美しさの奥にある底知れぬ狂気と孤独の秘密が隠されていた。坂口安吾が描く、妖しくも哀切な幻想の名作。
全578画面で、一文ずつめくる名文読書。
書誌情報・読書目安
- 初出
- 1947(昭和22)年
- 読了目安
- 約12分(全578画面)
- 文字遣い
- 新字新仮名
- 底本
- 底本:『白痴・桜の森の満開の下』新潮文庫、新潮社
- 入力・校正
- 入力:林弘美 校正:もりみつじゅんじ
文章の目次
578 CHUNKS一
峠の桜の森
- 01
桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。
↗ - 02
なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、
↗ - 03
これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、
↗ - 04
絶景だなどとは誰も思いませんでした。
↗ - 05
近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。
↗ - 06
昔、鈴鹿峠にも旅人が桜の森の花の下を通らなければならないような道になっていました。
↗ - 07
花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、
↗ - 08
旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。
↗ - 09
できるだけ早く花の下から逃げようと思って、
↗ - 10
青い木や枯れ木のある方へ一目散に走りだしたものです。
↗ - 11
一人だとまだよいので、なぜかというと、花の下を一目散に逃げて、
↗ - 12
あたりまえの木の下へくるとホッとしてヤレヤレと思って、すむからですが、二人連は都合が悪い。
↗ - 13
なぜなら人間の足の早さは各人各様で、一人が遅れますから、
↗ - 14
オイ待ってくれ、後から必死に叫んでも、みんな気違いで、友達をすてて走ります。
↗ - 15
それで鈴鹿峠の桜の森の花の下を通過したとたんに今迄仲のよかった旅人が仲が悪くなり、
↗ - 16
相手の友情を信用しなくなります。
↗ - 17
そんなことから旅人も自然に桜の森の下を通らないで、わざわざ遠まわりの別の山道を歩くようになり、やがて桜の森は街道を外れて人の子一人通らない山の静寂へとり残されてしまいました。
↗ - 18
そうなって何年かあとに、この山に一人の山賊が住みはじめましたが、
↗ - 19
この山賊はずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、
↗ - 20
こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖しくなって気が変になりました。
↗ - 21
そこで山賊はそれ以来花がきらいで、花というものは怖しいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中では呟いていました。
↗ - 22
花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。
↗ - 23
そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。
↗ - 24
自分の姿と跫音ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。
↗ - 25
花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。
↗ - 26
それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、
↗ - 27
目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、
↗ - 28
一そう気違いになるのでした。
↗ - 29
けれども山賊は落付いた男で、後悔ということを知らない男ですから、
↗ - 30
これはおかしいと考えたのです。ひとつ、来年、考えてやろう。
↗ - 31
そう思いました。今年は考える気がしなかったのです。
↗ - 32
そして、来年、花がさいたら、そのときじっくり考えようと思いました。
↗ - 33
毎年そう考えて、もう十何年もたち、今年も亦、来年になったら考えてやろうと思って、又、年が暮れてしまいました。
↗ - 34
そう考えているうちに、始めは一人だった女房がもう七人にもなり、
↗ - 35
八人目の女房を又街道から女の亭主の着物と一緒にさらってきました。
↗ - 36
女の亭主は殺してきました。
↗ - 37
山賊は女の亭主を殺す時から、どうも変だと思っていました。
↗ - 38
いつもと勝手が違うのです。
↗ - 39
どこということは分らぬけれども、変てこで、
↗ - 40
けれども彼の心は物にこだわることに慣れませんので、そのときも格別深く心にとめませんでした。
↗ - 41
山賊は始めは男を殺す気はなかったので、身ぐるみ脱がせて、
↗ - 42
いつもするようにとっとと失せろと蹴とばしてやるつもりでしたが、
↗ - 43
女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてていました。
↗ - 44
彼自身に思いがけない出来事であったばかりでなく、
↗ - 45
女にとっても思いがけない出来事だったしるしに、
↗ - 46
山賊がふりむくと女は腰をぬかして彼の顔をぼんやり見つめました。
↗ - 47
今日からお前は俺の女房だと言うと、女はうなずきました。
↗ - 48
手をとって女を引き起すと、女は歩けないからオブっておくれと言います。
↗ - 49
山賊は承知承知と女を軽々と背負って歩きましたが、険しい登り坂へきて、
↗ - 50
ここは危いから降りて歩いて貰おうと言っても、女はしがみついて厭々、
↗ - 51
厭ヨ、と言って降りません。
↗ - 52
「お前のような山男が苦しがるほどの坂道をどうして私が歩けるものか、考えてごらんよ」
↗ - 53
「そうか、そうか、よしよし」と男は疲れて苦しくても好機嫌でした。
↗ - 54
「でも、一度だけ降りておくれ。
↗ - 55
私は強いのだから、苦しくて、一休みしたいというわけじゃないぜ。
↗ - 56
眼の玉が頭の後側にあるというわけのものじゃないから、
↗ - 57
さっきからお前さんをオブっていてもなんとなくもどかしくて仕方がないのだよ。
↗ - 58
一度だけ下へ降りてかわいい顔を拝ましてもらいたいものだ」
↗ - 59
「厭よ、厭よ」と、又、女はやけに首っ玉にしがみつきました。
↗ - 60
「私はこんな淋しいところに一っときもジッとしていられないヨ。
↗ - 61
お前のうちのあるところまで一っときも休まず急いでおくれ。
↗ - 62
さもないと、私はお前の女房になってやらないよ。
↗ - 63
私にこんな淋しい思いをさせるなら、私は舌を噛んで死んでしまうから」
↗ - 64
「よしよし。分った。お前のたのみはなんでもきいてやろう」
↗ - 65
山賊はこの美しい女房を相手に未来のたのしみを考えて、とけるような幸福を感じました。
↗ - 66
彼は威張りかえって肩を張って、前の山、後の山、右の山、左の山、
↗ - 67
ぐるりと一廻転して女に見せて、
↗ - 68
「これだけの山という山がみんな俺のものなんだぜ」
↗ - 69
と言いましたが、女はそんなことにはてんで取りあいません。
↗ - 70
彼は意外に又残念で、「いいかい。
↗ - 71
お前の目に見える山という山、木という木、谷という谷、その谷からわく雲まで、
↗ - 72
みんな俺のものなんだぜ」「早く歩いておくれ。
↗ - 73
私はこんな岩コブだらけの崖の下にいたくないのだから」
↗ - 74
「よし、よし。
↗ - 75
今にうちにつくと飛びきりの御馳走をこしらえてやるよ」
↗ - 76
「お前はもっと急げないのかえ。走っておくれ」
↗ - 77
「なかなかこの坂道は俺が一人でもそうは駈けられない難所だよ」
↗ - 78
「お前も見かけによらない意気地なしだねえ。
↗ - 79
私としたことが、とんだ甲斐性なしの女房になってしまった。ああ、ああ。
↗ - 80
これから何をたよりに暮したらいいのだろう」「なにを馬鹿な。
↗ - 81
これぐらいの坂道が」「アア、もどかしいねえ。
↗ - 82
お前はもう疲れたのかえ」「馬鹿なことを。
↗ - 83
この坂道をつきぬけると、鹿もかなわぬように走ってみせるから」
↗ - 84
「でもお前の息は苦しそうだよ。顔色が青いじゃないか」
↗ - 85
「なんでも物事の始めのうちはそういうものさ。
↗ - 86
今に勢いのはずみがつけば、お前が背中で目を廻すぐらい速く走るよ」
↗ - 87
けれども山賊は身体が節々からバラバラに分かれてしまったように疲れていました。
↗ - 88
そしてわが家の前へ辿りついたときには目もくらみ耳もなり嗄れ声のひときれをふりしぼる力もありません。
↗ - 89
家の中から七人の女房が迎えに出てきましたが、
↗ - 90
山賊は石のようにこわばった身体をほぐして背中の女を下すだけで勢一杯でした。
↗ - 91
七人の女房は今迄に見かけたこともない女の美しさに打たれましたが、
↗ - 92
女は七人の女房の汚さに驚きました。
↗ - 93
七人の女房の中には昔はかなり綺麗な女もいたのですが今は見る影もありません。
↗ - 94
女は薄気味悪がって男の背へしりぞいて、「この山女は何なのよ」
↗ - 95
「これは俺の昔の女房なんだよ」と男は困って「昔の」
↗ - 96
という文句を考えついて加えたのはとっさの返事にしては良く出来ていましたが、
↗ - 97
女は容赦がありません。「まア、これがお前の女房かえ」
↗ - 98
「それは、お前、俺はお前のような可愛いい女がいようとは知らなかったのだからね」
↗ - 99
「あの女を斬り殺しておくれ」
↗ - 100
女はいちばん顔形のととのった一人を指して叫びました。
↗ - 101
「だって、お前、殺さなくっとも、女中だと思えばいいじゃないか」
↗ - 102
「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。
↗ - 103
お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ」男の結ばれた口から呻きがもれました。
↗ - 104
男はとびあがるように一躍りして指された女を斬り倒していました。
↗ - 105
然し、息つくひまもありません。「この女よ。
↗ - 106
今度は、それ、この女よ」男はためらいましたが、すぐズカズカ歩いて行って、女の頸へザクリとダンビラを斬りこみました。
↗ - 107
首がまだコロコロととまらぬうちに、
↗ - 108
女のふっくらツヤのある透きとおる声は次の女を指して美しく響いていました。
↗ - 109
「この女よ。今度は」
↗ - 110
指さされた女は両手に顔をかくしてキャーという叫び声をはりあげました。
↗ - 111
その叫びにふりかぶって、ダンビラは宙を閃いて走りました。
↗ - 112
残る女たちは俄に一時に立上って四方に散りました。
↗ - 113
「一人でも逃したら承知しないよ。藪の陰にも一人いるよ。上手へ一人逃げて行くよ」
↗ - 114
男は血刀をふりあげて山の林を駈け狂いました。
↗ - 115
たった一人逃げおくれて腰をぬかした女がいました。
↗ - 116
それはいちばん醜くて、ビッコの女でしたが、
↗ - 117
男が逃げた女を一人あまさず斬りすてて戻ってきて、無造作にダンビラをふりあげますと、
↗ - 118
「いいのよ。この女だけは。これは私が女中に使うから」
↗ - 119
「ついでだから、やってしまうよ」「バカだね。
↗ - 120
私が殺さないでおくれと言うのだよ」「アア、そうか。ほんとだ」
↗ - 121
男は血刀を投げすてて尻もちをつきました。
↗ - 122
疲れがどッとこみあげて目がくらみ、土から生えた尻のように重みが分ってきました。
↗ - 123
ふと静寂に気がつきました。
↗ - 124
とびたつような怖ろしさがこみあげ、ぎょッとして振向くと、
↗ - 125
女はそこにいくらかやる瀬ない風情でたたずんでいます。
↗ - 126
男は悪夢からさめたような気がしました。
↗ - 127
そして、目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。
↗ - 128
けれども男は不安でした。
↗ - 129
どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分らぬのです。
↗ - 130
女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、
↗ - 131
胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。
↗ - 132
なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。
↗ - 133
似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。
↗ - 134
アア、そうだ、あれだ。気がつくと彼はびっくりしました。
↗ - 135
桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。
↗ - 136
どこが、何が、どんな風に似ているのだか分りません。
↗ - 137
けれども、何か、似ていることは、たしかでした。
↗ - 138
彼にはいつもそれぐらいのことしか分らず、それから先は分らなくても気にならぬたちの男でした。
↗ - 139
山の長い冬が終り、山のてっぺんの方や谷のくぼみに樹の陰に雪はポツポツ残っていましたが、
↗ - 140
やがて花の季節が訪れようとして春のきざしが空いちめんにかがやいていました。
↗ - 141
今年、桜の花が咲いたら、と、彼は考えました。
↗ - 142
花の下にさしかかる時はまだそれほどではありません。
↗ - 143
それで思いきって花の下へ歩きこみます。
↗ - 144
だんだん歩くうちに気が変になり、前も後も右も左も、
↗ - 145
どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、
↗ - 146
森のまんなかに近づくと怖しさに盲滅法たまらなくなるのでした。
↗ - 147
今年はひとつ、あの花ざかりの林のまんなかで、ジッと動かずに、いや、
↗ - 148
思いきって地べたに坐ってやろう、と彼は考えました。
↗ - 149
そのとき、この女もつれて行こうか、彼はふと考えて、女の顔をチラと見ると、
↗ - 150
胸さわぎがして慌てて目をそらしました。
↗ - 151
自分の肚が女に知れては大変だという気持が、なぜだか胸に焼け残りました。
↗ - 152
★女は大変なわがまま者でした。
↗ - 153
どんなに心をこめた御馳走をこしらえてやっても、必ず不服を言いました。
↗ - 154
彼は小鳥や鹿をとりに山を走りました。猪も熊もとりました。
↗ - 155
ビッコの女は木の芽や草の根をさがしてひねもす林間をさまよいました。
↗ - 156
然し女は満足を示したことはありません。
↗ - 157
「毎日こんなものを私に食えというのかえ」
↗ - 158
「だって、飛び切りの御馳走なんだぜ。
↗ - 159
お前がここへくるまでは、十日に一度ぐらいしかこれだけのものは食わなかったものだ」
↗ - 160
「お前は山男だからそれでいいのだろうさ。私の喉は通らないよ。
↗ - 161
こんな淋しい山奥で、夜の夜長にきくものと云えば梟の声ばかり、せめて食べる物でも都に劣らぬおいしい物が食べられないものかねえ。
↗ - 162
都の風がどんなものか。
↗ - 163
その都の風をせきとめられた私の思いのせつなさがどんなものか、
↗ - 164
お前には察しることも出来ないのだね。お前は私から都の風をもぎとって、その代りにお前の呉れた物といえば鴉や梟の鳴く声ばかり。
↗ - 165
お前はそれを羞かしいとも、むごたらしいとも思わないのだよ」
↗ - 166
女の怨じる言葉の道理が男には呑みこめなかったのです。
↗ - 167
なぜなら男は都の風がどんなものだか知りません。
↗ - 168
見当もつかないのです。この生活、この幸福に足りないものがあるという事実に就て思い当るものがない。彼はただ女の怨じる風情の切なさに当惑し、
↗ - 169
それをどのように処置してよいか目当に就て何の事実も知らないので、もどかしさに苦しみました。
↗ - 170
今迄には都からの旅人を何人殺したか知れません。都からの旅人は金持で所持品も豪華ですから、都は彼のよい鴨で、
↗ - 171
せっかく所持品を奪ってみても中身がつまらなかったりするとチェッこの田舎者め、
↗ - 172
とか土百姓めとか罵ったもので、つまり彼は都に就てはそれだけが知識の全部で、
↗ - 173
豪華な所持品をもつ人達のいるところであり、
↗ - 174
彼はそれをまきあげるという考え以外に余念はありませんでした。
↗ - 175
都の空がどっちの方角だということすらも、考えてみる必要がなかったのです。
↗ - 176
女は櫛だの笄だの簪だの紅だのを大事にしました。
↗ - 177
彼が泥の手や山の獣の血にぬれた手でかすかに着物にふれただけでも女は彼を叱りました。
↗ - 178
まるで着物が女のいのちであるように、そしてそれをまもることが自分のつとめであるように、
↗ - 179
身の廻りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。
↗ - 180
その着物は一枚の小袖と細紐だけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、
↗ - 181
そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れ流されて、
↗ - 182
色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。
↗ - 183
男は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。
↗ - 184
彼は納得させられたのです。
↗ - 185
かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている、
↗ - 186
それは疑る余地がない、個としては意味をもたない不完全かつ不可解な
↗ - 187
断片が集まることによって一つの物を完成する、
↗ - 188
その物を分解すれば無意味なる断片に帰する、
↗ - 189
それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させられたのでした。
↗ - 190
男は山の木を切りだして女の命じるものを作ります。
↗ - 191
何物が、そして何用につくられるのか、
↗ - 192
彼自身それを作りつつあるうちは知ることが出来ないのでした。
↗
二
満開の下の狂気
- 193
それは胡床と肱掛でした。胡床はつまり椅子です。
↗ - 194
お天気の日、女はこれを外へ出させて、日向に、又、木陰に、腰かけて目をつぶります。
↗ - 195
部屋の中では肱掛にもたれて物思いにふけるような、そしてそれは、
↗ - 196
それを見る男の目にはすべてが異様な、なまめかしく、なやましい姿に外ならぬのでした。
↗ - 197
魔術は現実に行われており、彼自らがその魔術の助手でありながら、その行われる魔術の結果に常に訝りそして嘆賞するのでした。
↗ - 198
ビッコの女は朝毎に女の長い黒髪をくしけずります。
↗ - 199
そのために用いる水を、男は谷川の特に遠い清水からくみとり、
↗ - 200
そして特別そのように注意を払う自分の労苦をなつかしみました。
↗ - 201
自分自身が魔術の一つの力になりたいということが男の願いになっていました。
↗ - 202
そして彼自身くしけずられる黒髪にわが手を加えてみたいものだと思います。
↗ - 203
いやよ、そんな手は、と女は男を払いのけて叱ります。
↗ - 204
男は子供のように手をひっこめて、てれながら、黒髪にツヤが立ち、
↗ - 205
結ばれ、そして顔があらわれ、一つの美が描かれ生まれてくることを見果てぬ夢に思うのでした。
↗ - 206
「こんなものがなア」
↗ - 207
彼は模様のある櫛や飾のある笄をいじり廻しました。
↗ - 208
それは彼が今迄は意味も値打もみとめることのできなかったものでしたが、今も尚、物と物との調和や関係、飾りという意味の批判はありません。
↗ - 209
けれども魔力が分ります。魔力は物のいのちでした。
↗ - 210
物の中にもいのちがあります。「お前がいじってはいけないよ。
↗ - 211
なぜ毎日きまったように手をだすのだろうね」「不思議なものだなア」
↗ - 212
「何が不思議なのさ」「何がってこともないけどさ」
↗ - 213
と男はてれました。
↗ - 214
彼には驚きがありましたが、その対象は分らぬのです。
↗ - 215
そして男に都を怖れる心が生れていました。
↗ - 216
その怖れは恐怖ではなく、知らないということに対する羞恥と不安で、
↗ - 217
物知りが未知の事柄にいだく不安と羞恥に似ていました。女が「都」
↗ - 218
というたびに彼の心は怯え戦きました。
↗ - 219
けれども彼は目に見える何物も怖れたことがなかったので、
↗ - 220
怖れの心になじみがなく、羞じる心にも馴れていません。
↗ - 221
そして彼は都に対して敵意だけをもちました。
↗ - 222
何百何千の都からの旅人を襲ったが手に立つ者がなかったのだから、と彼は満足して考えました。
↗ - 223
どんな過去を思いだしても、裏切られ傷けられる不安がありません。
↗ - 224
それに気附くと、彼は常に愉快で又誇りやかでした。
↗ - 225
彼は女の美に対して自分の強さを対比しました。
↗ - 226
そして強さの自覚の上で多少の苦手と見られるものは猪だけでした。
↗ - 227
その猪も実際はさして怖るべき敵でもないので、彼はゆとりがありました。
↗ - 228
「都には牙のある人間がいるかい」「弓をもったサムライがいるよ」
↗ - 229
「ハッハッハ。弓なら俺は谷の向うの雀の子でも落すのだからな。
↗ - 230
都には刀が折れてしまうような皮の堅い人間はいないだろう」
↗ - 231
「鎧をきたサムライがいるよ」「鎧は刀が折れるのか」「折れるよ」
↗ - 232
「俺は熊も猪も組み伏せてしまうのだからな」
↗ - 233
「お前が本当に強い男なら、私を都へ連れて行っておくれ。
↗ - 234
お前の力で、私の欲しい物、都の粋を私の身の廻りへ飾っておくれ。
↗ - 235
そして私にシンから楽しい思いを授けてくれることができるなら、お前は本当に強い男なのさ」
↗ - 236
「わけのないことだ」男は都へ行くことに心をきめました。
↗ - 237
彼は都にありとある櫛や笄や簪や着物や鏡や紅を三日三晩とたたないう
↗ - 238
ちに女の廻りへ積みあげてみせるつもりでした。
↗ - 239
何の気がかりもありません。
↗ - 240
一つだけ気にかかることは、まったく都に関係のない別なことでした。
↗ - 241
それは桜の森でした。
↗ - 242
二日か三日の後に森の満開が訪れようとしていました。
↗ - 243
今年こそ、彼は決意していました。
↗ - 244
桜の森の花ざかりのまんなかで、身動きもせずジッと坐っていてみせる。
↗ - 245
彼は毎日ひそかに桜の森へでかけて蕾のふくらみをはかっていました。
↗ - 246
あと三日、彼は出発を急ぐ女に言いました。
↗ - 247
「お前に支度の面倒があるものかね」と女は眉をよせました。
↗ - 248
「じらさないでおくれ。都が私をよんでいるのだよ」
↗ - 249
「それでも約束があるからね」「お前がかえ。
↗ - 250
この山奥に約束した誰がいるのさ」「それは誰もいないけれども、ね。
↗ - 251
けれども、約束があるのだよ」
↗ - 252
「それはマア珍しいことがあるものだねえ。
↗ - 253
誰もいなくって誰と約束するのだえ」男は嘘がつけなくなりました。
↗ - 254
「桜の花が咲くのだよ」「桜の花と約束したのかえ」
↗ - 255
「桜の花が咲くから、それを見てから出掛けなければならないのだよ」
↗ - 256
「どういうわけで」
↗ - 257
「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」
↗ - 258
「だから、なぜ行って見なければならないのよ」「花が咲くからだよ」
↗ - 259
「花が咲くから、なぜさ」
↗ - 260
「花の下は冷めたい風がはりつめているからだよ」「花の下にかえ」
↗ - 261
「花の下は涯がないからだよ」「花の下がかえ」
↗ - 262
男は分らなくなってクシャクシャしました。
↗ - 263
「私も花の下へ連れて行っておくれ」「それは、だめだ」
↗ - 264
男はキッパリ言いました。「一人でなくちゃ、だめなんだ」
↗ - 265
女は苦笑しました。男は苦笑というものを始めて見ました。
↗ - 266
そんな意地の悪い笑いを彼は今まで知らなかったのでした。
↗ - 267
そしてそれを彼は「意地の悪い」
↗ - 268
という風には判断せずに、刀で斬っても斬れないように、と判断しました。
↗ - 269
その証拠には、苦笑は彼の頭にハンを捺したように刻みつけられてしまったからです。
↗ - 270
それは刀の刃のように思いだすたびにチクチク頭をきりました。
↗ - 271
そして彼がそれを斬ることはできないのでした。三日目がきました。
↗ - 272
彼はひそかに出かけました。桜の森は満開でした。
↗ - 273
一足ふみこむとき、彼は女の苦笑を思いだしました。
↗ - 274
それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。
↗ - 275
それだけでもう彼は混乱していました。
↗ - 276
花の下の冷めたさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。
↗ - 277
彼の身体は忽ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、
↗ - 278
すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。
↗ - 279
彼は走りました。何という虚空でしょう。
↗ - 280
彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。
↗ - 281
そして、花の下をぬけだしたことが分ったとき、夢の中から我にかえった同じ気持を見出しました。
↗ - 282
夢と違っていることは、本当に息も絶え絶えになっている身の苦しさでありました。
↗ - 283
★男と女とビッコの女は都に住みはじめました。
↗ - 284
男は夜毎に女の命じる邸宅へ忍び入りました。
↗ - 285
着物や宝石や装身具も持ちだしましたが、それのみが女の心を充たす物ではありませんでした。
↗ - 286
女の何より欲しがるものは、その家に住む人の首でした。
↗ - 287
彼等の家にはすでに何十の邸宅の首が集められていました。
↗ - 288
部屋の四方の衝立に仕切られて首は並べられ、ある首はつるされ、
↗ - 289
男には首の数が多すぎてどれがどれやら分らなくとも、女は一々覚えており、
↗ - 290
すでに毛がぬけ、肉がくさり、白骨になっても、どこのたれということを覚えていました。
↗ - 291
男やビッコの女が首の場所を変えると怒り、ここはどこの家族、
↗ - 292
ここは誰の家族とやかましく言いました。女は毎日首遊びをしました。
↗ - 293
首は家来をつれて散歩にでます。
↗ - 294
首の家族へ別の首の家族が遊びに来ます。首が恋をします。
↗ - 295
女の首が男の首をふり、又、男の首が女の首をすてて女の首を泣かせることもありました。
↗ - 296
姫君の首は大納言の首にだまされました。大納言の首は月のない夜、姫君の首の恋する人の首のふりをして忍んで行って契りを結びます。契りの後に姫君の首が気がつきます。
↗ - 297
姫君の首は大納言の首を憎むことができず我が身のさだめの悲しさに泣いて、尼になるのでした。
↗ - 298
すると大納言の首は尼寺へ行って、尼になった姫君の首を犯します。
↗ - 299
姫君の首は死のうとしますが大納言のささやきに負けて尼寺を逃げて山科の里へかくれて大納言の首のかこい者となって髪の毛を生やします。
↗ - 300
姫君の首も大納言の首ももはや毛がぬけ肉がくさりウジ虫がわき骨がのぞけていました。
↗ - 301
二人の首は酒もりをして恋にたわぶれ、歯の骨と歯の骨と噛み合ってカチカチ鳴り、
↗ - 302
くさった肉がペチャペチャくっつき合い鼻もつぶれ目の玉もくりぬけていました。
↗ - 303
ペチャペチャとくッつき二人の顔の形がくずれるたびに女は大喜びで、
↗ - 304
けたたましく笑いさざめきました。
↗ - 305
「ほれ、ホッペタを食べてやりなさい。ああおいしい。
↗ - 306
姫君の喉もたべてやりましょう。ハイ、目の玉もかじりましょう。
↗ - 307
すすってやりましょうね。ハイ、ペロペロ。アラ、おいしいね。
↗ - 308
もう、たまらないのよ、ねえ、ほら、ウンとかじりついてやれ」
↗ - 309
女はカラカラ笑います。綺麗な澄んだ笑い声です。薄い陶器が鳴るような爽やかな声でした。
↗ - 310
坊主の首もありました。坊主の首は女に憎がられていました。
↗ - 311
いつも悪い役をふられ、憎まれて、嬲り殺しにされたり、役人に処刑されたりしました。
↗ - 312
坊主の首は首になって後に却って毛が生え、やがてその毛もぬけてくさりはて、白骨になりました。
↗ - 313
白骨になると、女は別の坊主の首を持ってくるように命じました。
↗ - 314
新しい坊主の首はまだうら若い水々しい稚子の美しさが残っていました。
↗ - 315
女はよろこんで机にのせ酒をふくませ頬ずりして舐めたりくすぐったりしましたが、じきあきました。
↗ - 316
「もっと太った憎たらしい首よ」女は命じました。
↗ - 317
男は面倒になって五ツほどブラさげて来ました。
↗ - 318
ヨボヨボの老僧の首も、眉の太い頬っぺたの厚い、蛙がしがみついているような鼻の形の顔もありました。
↗ - 319
耳のとがった馬のような坊主の首も、ひどく神妙な首の坊主もあります。
↗ - 320
けれども女の気に入ったのは一つでした。
↗ - 321
それは五十ぐらいの大坊主の首で、ブ男で目尻がたれ、頬がたるみ、
↗ - 322
唇が厚くて、その重さで口があいているようなだらしのない首でした。
↗ - 323
女はたれた目尻の両端を両手の指の先で押えて、クリクリと吊りあげて廻したり、
↗ - 324
獅子鼻の孔へ二本の棒をさしこんだり、逆さに立ててころがしたり、
↗ - 325
だきしめて自分のお乳を厚い唇の間へ押しこんでシャブらせたりして大笑いしました。
↗ - 326
けれどもじきにあきました。美しい娘の首がありました。
↗ - 327
清らかな静かな高貴な首でした。
↗ - 328
子供っぽくて、そのくせ死んだ顔ですから妙に大人びた憂いがあり、
↗ - 329
閉じられたマブタの奥に楽しい思いも悲しい思いもマセた思いも一度に
↗ - 330
ゴッちゃに隠されているようでした。
↗ - 331
女はその首を自分の娘か妹のように可愛がりました。
↗ - 332
黒い髪の毛をすいてやり、顔にお化粧してやりました。
↗ - 333
ああでもない、こうでもないと念を入れて、
↗ - 334
花の香りのむらだつようなやさしい顔が浮きあがりました。
↗ - 335
娘の首のために、一人の若い貴公子の首が必要でした。
↗ - 336
貴公子の首も念入りにお化粧され、二人の若者の首は燃え狂うような恋の遊びにふけります。
↗ - 337
すねたり、怒ったり、憎んだり、嘘をついたり、だましたり、
↗ - 338
悲しい顔をしてみせたり、けれども二人の情熱が一度に燃えあがるとき
↗ - 339
は一人の火がめいめい他の一人を焼きこがしてどっちも焼かれて舞いあ
↗ - 340
がる火焔になって燃えまじりました。
↗ - 341
けれども間もなく悪侍だの色好みの大人だの悪僧だの汚い首が邪魔にでて、
↗ - 342
貴公子の首は蹴られて打たれたあげくに殺されて、
↗ - 343
右から左から前から後から汚い首がゴチャゴチャ娘に挑みかかって、
↗ - 344
娘の首には汚い首の腐った肉がへばりつき、牙のような歯に食いつかれ、
↗ - 345
鼻の先が欠けたり、毛がむしられたりします。
↗ - 346
すると女は娘の首を針でつついて穴をあけ、小刀で切ったり、えぐったり、
↗ - 347
誰の首よりも汚らしい目も当てられない首にして投げだすのでした。
↗ - 348
男は都を嫌いました。
↗ - 349
都の珍らしさも馴れてしまうと、なじめない気持ばかりが残りました。
↗ - 350
彼も都では人並に水干を着ても脛をだして歩いていました。白昼は刀をさすことも出来ません。
↗ - 351
市へ買物に行かなければなりませんし、白首のいる居酒屋で酒をのんでも金を払わねばなりません。
↗ - 352
市の商人は彼をなぶりました。
↗ - 353
野菜をつんで売りにくる田舎女も子供までなぶりました。
↗ - 354
白首も彼を笑いました。都では貴族は牛車で道のまんなかを通ります。
↗ - 355
水干をきた跣足の家来はたいがいふるまい酒に顔を赤くして威張りちらして歩いて行きました。
↗ - 356
彼はマヌケだのバカだのノロマだのと市でも路上でもお寺の庭でも怒鳴られました。
↗ - 357
それでもうそれぐらいのことには腹が立たなくなっていました。
↗ - 358
男は何よりも退屈に苦しみました。
↗ - 359
人間共というものは退屈なものだ、と彼はつくづく思いました。
↗ - 360
彼はつまり人間がうるさいのでした。
↗ - 361
大きな犬が歩いていると、小さな犬が吠えます。
↗ - 362
男は吠えられる犬のようなものでした。
↗ - 363
彼はひがんだり嫉んだりすねたり考えたりすることが嫌いでした。
↗ - 364
山の獣や樹や川や鳥はうるさくはなかったがな、と彼は思いました。
↗ - 365
「都は退屈なところだなア」と彼はビッコの女に言いました。
↗ - 366
「お前は山へ帰りたいと思わないか」「私は都は退屈ではないからね」
↗ - 367
とビッコの女は答えました。ビッコの女は一日中料理をこしらえ洗濯し近所の人達とお喋りしていました。「都ではお喋りができるから退屈しないよ。
↗ - 368
私は山は退屈で嫌いさ」「お前はお喋りが退屈でないのか」
↗ - 369
「あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ」
↗ - 370
「俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ」
↗ - 371
「お前は喋らないから退屈なのさ」「そんなことがあるものか。
↗ - 372
喋ると退屈するから喋らないのだ」「でも喋ってごらんよ。
↗ - 373
きっと退屈を忘れるから」「何を」「何でも喋りたいことをさ」
↗ - 374
「喋りたいことなんかあるものか」
↗ - 375
男はいまいましがってアクビをしました。都にも山がありました。
↗ - 376
然し、山の上には寺があったり庵があったり、そして、そこには却って多くの人の往来がありました。山から都が一目に見えます。
↗ - 377
なんというたくさんの家だろう。
↗ - 378
そして、なんという汚い眺めだろう、と思いました。
↗ - 379
彼は毎晩人を殺していることを昼は殆ど忘れていました。
↗ - 380
なぜなら彼は人を殺すことにも退屈しているからでした。
↗ - 381
何も興味はありません。
↗ - 382
刀で叩くと首がポロリと落ちているだけでした。
↗ - 383
首はやわらかいものでした。
↗ - 384
骨の手応えはまったく感じることがないもので、大根を斬るのと同じようなものでした。
↗ - 385
その首の重さの方が彼には余程意外でした。
↗
三
花びらと孤独
- 386
彼には女の気持が分るような気がしました。
↗ - 387
鐘つき堂では一人の坊主がヤケになって鐘をついています。
↗ - 388
何というバカげたことをやるのだろうと彼は思いました。
↗ - 389
何をやりだすか分りません。
↗ - 390
こういう奴等と顔を見合って暮すとしたら、
↗ - 391
俺でも奴等を首にして一緒に暮すことを選ぶだろうさ、と思うのでした。
↗ - 392
けれども彼は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していたのでした。
↗ - 393
女の欲望は、いわば常にキリもなく空を直線に飛びつづけている鳥のようなものでした。
↗ - 394
休むひまなく常に直線に飛びつづけているのです。
↗ - 395
その鳥は疲れません。
↗ - 396
常に爽快に風をきり、スイスイと小気味よく無限に飛びつづけているのでした。
↗ - 397
けれども彼はただの鳥でした。
↗ - 398
枝から枝を飛び廻り、たまに谷を渉るぐらいがせいぜいで、枝にとまってうたたねしている梟にも似ていました。
↗ - 399
彼は敏捷でした。全身がよく動き、よく歩き、動作は生き生きしていました。
↗ - 400
彼の心は然し尻の重たい鳥なのでした。
↗ - 401
彼は無限に直線に飛ぶことなどは思いもよらないのです。
↗ - 402
男は山の上から都の空を眺めています。
↗ - 403
その空を一羽の鳥が直線に飛んで行きます。
↗ - 404
空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。
↗ - 405
その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、
↗ - 406
男は無限を事実に於て納得することができません。
↗ - 407
その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。
↗ - 408
彼の頭は割れそうになりました。
↗ - 409
それは考えの疲れでなしに、考えの苦しさのためでした。
↗ - 410
家へ帰ると、女はいつものように首遊びに耽っていました。彼の姿を見ると、女は待ち構えていたのでした。
↗ - 411
「今夜は白拍子の首を持ってきておくれ。とびきり美しい白拍子の首だよ。
↗ - 412
舞いを舞わせるのだから。私が今様を唄ってきかせてあげるよ」
↗ - 413
男はさっき山の上から見つめていた無限の明暗を思いだそうとしました。
↗ - 414
この部屋があのいつまでも涯のない無限の明暗のくりかえしの空の筈ですが、
↗ - 415
それはもう思いだすことができません。
↗ - 416
そして女は鳥ではなしに、やっぱり美しいいつもの女でありました。
↗ - 417
けれども彼は答えました。「俺は厭だよ」女はびっくりしました。
↗ - 418
そのあげくに笑いだしました。「おやおや。
↗ - 419
お前も臆病風に吹かれたの。お前もただの弱虫ね」
↗ - 420
「そんな弱虫じゃないのだ」「じゃ、何さ」
↗ - 421
「キリがないから厭になったのさ」「あら、おかしいね。
↗ - 422
なんでもキリがないものよ。
↗ - 423
毎日毎日ごはんを食べて、キリがないじゃないか。
↗ - 424
毎日毎日ねむって、キリがないじゃないか」「それと違うのだ」
↗ - 425
「どんな風に違うのよ」男は返事につまりました。
↗ - 426
けれども違うと思いました。
↗ - 427
それで言いくるめられる苦しさを逃れて外へ出ました。
↗ - 428
「白拍子の首をもっておいで」
↗ - 429
女の声が後から呼びかけましたが、彼は答えませんでした。
↗ - 430
彼はなぜ、どんな風に違うのだろうと考えましたが分りません。
↗ - 431
だんだん夜になりました。彼は又山の上へ登りました。
↗ - 432
もう空も見えなくなっていました。
↗ - 433
彼は気がつくと、空が落ちてくることを考えていました。
↗ - 434
空が落ちてきます。彼は首をしめつけられるように苦しんでいました。
↗ - 435
それは女を殺すことでした。
↗ - 436
空の無限の明暗を走りつづけることは、女を殺すことによって、とめることができます。
↗ - 437
そして、空は落ちてきます。彼はホッとすることができます。
↗ - 438
然し、彼の心臓には孔があいているのでした。
↗ - 439
彼の胸から鳥の姿が飛び去り、掻き消えているのでした。
↗ - 440
あの女が俺なんだろうか?
↗ - 441
そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか?
↗ - 442
と彼は疑りました。女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。
↗ - 443
俺は何を考えているのだろう?
↗ - 444
なぜ空を落さねばならないのだか、それも分らなくなっていました。
↗ - 445
あらゆる想念が捉えがたいものでありました。
↗ - 446
そして想念のひいたあとに残るものは苦痛のみでした。
↗ - 447
夜が明けました。彼は女のいる家へ戻る勇気が失われていました。
↗ - 448
そして数日、山中をさまよいました。
↗ - 449
ある朝、目がさめると、彼は桜の花の下にねていました。
↗ - 450
その桜の木は一本でした。桜の木は満開でした。
↗ - 451
彼は驚いて飛び起きましたが、それは逃げだすためではありません。
↗ - 452
なぜなら、たった一本の桜の木でしたから。
↗ - 453
彼は鈴鹿の山の桜の森のことを突然思いだしていたのでした。
↗ - 454
あの山の桜の森も花盛りにちがいありません。
↗ - 455
彼はなつかしさに吾を忘れ、深い物思いに沈みました。山へ帰ろう。
↗ - 456
山へ帰るのだ。なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?
↗ - 457
そして、なぜ空を落すことなどを考え耽っていたのだろう?
↗ - 458
彼は悪夢のさめた思いがしました。救われた思いがしました。
↗ - 459
今までその知覚まで失っていた山の早春の匂いが身にせまって強く冷めたく分るのでした。
↗ - 460
男は家へ帰りました。女は嬉しげに彼を迎えました。
↗ - 461
「どこへ行っていたのさ。
↗ - 462
無理なことを言ってお前を苦しめてすまなかったわね。
↗ - 463
でも、お前がいなくなってからの私の淋しさを察しておくれな」
↗ - 464
女がこんなにやさしいことは今までにないことでした。
↗ - 465
男の胸は痛みました。
↗ - 466
もうすこしで彼の決意はとけて消えてしまいそうです。
↗ - 467
けれども彼は思い決しました。「俺は山へ帰ることにしたよ」
↗ - 468
「私を残してかえ。そんなむごたらしいことがどうしてお前の心に棲むようになったのだろう」女の眼は怒りに燃えました。
↗ - 469
その顔は裏切られた口惜しさで一ぱいでした。
↗ - 470
「お前はいつからそんな薄情者になったのよ」「だからさ。
↗ - 471
俺は都がきらいなんだ」「私という者がいてもかえ」
↗ - 472
「俺は都に住んでいたくないだけなんだ」
↗ - 473
「でも、私がいるじゃないか。お前は私が嫌いになったのかえ。
↗ - 474
私はお前のいない留守はお前のことばかり考えていたのだよ」
↗ - 475
女の目に涙の滴が宿りました。女の目に涙の宿ったのは始めてのことでした。
↗ - 476
女の顔にはもはや怒りは消えていました。つれなさを恨む切なさのみが溢れていました。
↗ - 477
「だってお前は都でなきゃ住むことができないのだろう。
↗ - 478
俺は山でなきゃ住んでいられないのだ」
↗ - 479
「私はお前と一緒でなきゃ生きていられないのだよ。
↗ - 480
私の思いがお前には分らないのかねえ」
↗ - 481
「でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ」
↗ - 482
「だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。
↗ - 483
私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」
↗ - 484
女の目は涙にぬれていました。
↗ - 485
男の胸に顔を押しあてて熱い涙をながしました。
↗ - 486
涙の熱さは男の胸にしみました。
↗ - 487
たしかに、女は男なしでは生きられなくなっていました。
↗ - 488
新しい首は女のいのちでした。
↗ - 489
そしてその首を女のためにもたらす者は彼の外にはなかったからです。
↗ - 490
彼は女の一部でした。女はそれを放すわけにいきません。
↗ - 491
男のノスタルジイがみたされたとき、再び都へつれもどす確信が女にはあるのでした。
↗ - 492
「でもお前は山で暮せるかえ」
↗ - 493
「お前と一緒ならどこででも暮すことができるよ」
↗ - 494
「山にはお前の欲しがるような首がないのだぜ」
↗ - 495
「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」
↗ - 496
夢ではないかと男は疑りました。
↗ - 497
あまり嬉しすぎて信じられないからでした。
↗ - 498
夢にすらこんな願ってもないことは考えることが出来なかったのでした。
↗ - 499
彼の胸は新な希望でいっぱいでした。その訪れは唐突で乱暴で、今のさっき迄の苦しい思いが、もはや捉えがたい彼方へ距てられていました。
↗ - 500
彼はこんなにやさしくはなかった昨日までの女のことも忘れました。
↗ - 501
今と明日があるだけでした。二人は直ちに出発しました。
↗ - 502
ビッコの女は残すことにしました。
↗ - 503
そして出発のとき、女はビッコの女に向って、じき帰ってくるから待っておいで、
↗ - 504
とひそかに言い残しました。★目の前に昔の山々の姿が現れました。
↗ - 505
呼べば答えるようでした。旧道をとることにしました。
↗ - 506
その道はもう踏む人がなく、道の姿は消え失せて、ただの林、ただの山坂になっていました。
↗ - 507
その道を行くと、桜の森の下を通ることになるのでした。
↗ - 508
「背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ」
↗ - 509
「ああ、いいとも」男は軽々と女を背負いました。
↗ - 510
男は始めて女を得た日のことを思いだしました。その日も彼は女を背負って峠のあちら側の山径を登ったのでした。
↗ - 511
その日も幸せで一ぱいでしたが、今日の幸せはさらに豊かなものでした。
↗ - 512
「はじめてお前に会った日もオンブして貰ったわね」
↗ - 513
と、女も思いだして、言いました。
↗ - 514
「俺もそれを思いだしていたのだぜ」男は嬉しそうに笑いました。
↗ - 515
「ほら、見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。
↗ - 516
谷も木も鳥も雲まで俺の山さ。山はいいなあ。
↗ - 517
走ってみたくなるじゃないか。都ではそんなことはなかったからな」
↗ - 518
「始めての日はオンブしてお前を走らせたものだったわね」
↗ - 519
「ほんとだ。ずいぶん疲れて、目がまわったものさ」
↗ - 520
男は桜の森の花ざかりを忘れてはいませんでした。
↗ - 521
然し、この幸福な日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのものでしょうか。
↗ - 522
彼は怖れていませんでした。
↗ - 523
そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。
↗ - 524
まさしく一面の満開でした。
↗ - 525
風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。
↗ - 526
土肌の上は一面に花びらがしかれていました。
↗ - 527
この花びらはどこから落ちてきたのだろう?
↗ - 528
なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見は
↗ - 529
るかす頭上にひろがっているからでした。
↗ - 530
男は満開の花の下へ歩きこみました。
↗ - 531
あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。
↗ - 532
彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。
↗ - 533
俄に不安になりました。とっさに彼は分りました。
↗ - 534
女が鬼であることを。
↗ - 535
突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。
↗ - 536
男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。
↗ - 537
その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。男は走りました。
↗ - 538
振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。
↗ - 539
彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。
↗ - 540
全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。
↗ - 541
その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。
↗ - 542
今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。
↗ - 543
そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、
↗ - 544
そして女はすでに息絶えていました。彼の目は霞んでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、
↗ - 545
それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。
↗ - 546
なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変らず矢張り女で、同じ女の屍体がそこに在るばかりだからでありました。彼の呼吸はとまりました。
↗ - 547
彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。
↗ - 548
女の屍体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。
↗ - 549
彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒労でした。
↗ - 550
彼はワッと泣きふしました。
↗ - 551
たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。
↗ - 552
そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。
↗ - 553
そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。
↗ - 554
四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。
↗ - 555
日頃のような怖れや不安は消えていました。
↗ - 556
花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。
↗ - 557
ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。
↗ - 558
彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。
↗ - 559
いつまでもそこに坐っていることができます。
↗ - 560
彼はもう帰るところがないのですから。
↗ - 561
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」
↗ - 562
というものであったかも知れません。
↗ - 563
なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。
↗ - 564
彼自らが孤独自体でありました。彼は始めて四方を見廻しました。
↗ - 565
頭上に花がありました。
↗ - 566
その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。
↗ - 567
ひそひそと花が降ります。それだけのことです。
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外には何の秘密もないのでした。
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ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。
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そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。
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花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、
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すこしずつ分りかけてくるのでした。
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彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。
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彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。
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すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、
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女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。
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そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。
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あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
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