桜の森の満開の下01 / 578

桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子だんごをたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩けんかして、

桜の森の満開の下坂口 安吾

これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、

桜の森の満開の下坂口 安吾

絶景だなどとは誰も思いませんでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足だそく)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

昔、鈴鹿峠にも旅人が桜の森の花の下を通らなければならないような道になっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、

桜の森の満開の下坂口 安吾

旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

できるだけ早く花の下から逃げようと思って、

桜の森の満開の下坂口 安吾

青い木や枯れ木のある方へ一目散に走りだしたものです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

一人だとまだよいので、なぜかというと、花の下を一目散に逃げて、

桜の森の満開の下坂口 安吾

あたりまえの木の下へくるとホッとしてヤレヤレと思って、すむからですが、二人連は都合が悪い。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なぜなら人間の足の早さは各人各様で、一人が遅れますから、

桜の森の満開の下坂口 安吾

オイ待ってくれ、後から必死に叫んでも、みんな気違いで、友達をすてて走ります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それで鈴鹿峠の桜の森の花の下を通過したとたんに今迄仲のよかった旅人が仲が悪くなり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

相手の友情を信用しなくなります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そんなことから旅人も自然に桜の森の下を通らないで、わざわざ遠まわりの別の山道を歩くようになり、やがて桜の森は街道をはずれて人の子一人通らない山の静寂へとり残されてしまいました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そうなって何年かあとに、この山に一人の山賊が住みはじめましたが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

この山賊はずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖しくなって気が変になりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そこで山賊はそれ以来花がきらいで、花というものは怖しいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中ではつぶやいていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

自分の姿と跫音あしおとばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、

桜の森の満開の下坂口 安吾

一そう気違いになるのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども山賊は落付いた男で、後悔ということを知らない男ですから、

桜の森の満開の下坂口 安吾

これはおかしいと考えたのです。ひとつ、来年、考えてやろう。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そう思いました。今年は考える気がしなかったのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして、来年、花がさいたら、そのときじっくり考えようと思いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

毎年そう考えて、もう十何年もたち、今年もまた、来年になったら考えてやろうと思って、又、年が暮れてしまいました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そう考えているうちに、始めは一人だった女房がもう七人にもなり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

八人目の女房を又街道から女の亭主の着物と一緒にさらってきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の亭主は殺してきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

山賊は女の亭主を殺す時から、どうも変だと思っていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

いつもと勝手が違うのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

どこということは分らぬけれども、変てこで、

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども彼の心は物にこだわることに慣れませんので、そのときも格別深く心にとめませんでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

山賊は始めは男を殺す気はなかったので、身ぐるみ脱がせて、

桜の森の満開の下坂口 安吾

いつもするようにとっとと失せろと蹴とばしてやるつもりでしたが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼自身に思いがけない出来事であったばかりでなく、

桜の森の満開の下坂口 安吾

女にとっても思いがけない出来事だったしるしに、

桜の森の満開の下坂口 安吾

山賊がふりむくと女は腰をぬかして彼の顔をぼんやり見つめました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今日からお前は俺の女房だと言うと、女はうなずきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

手をとって女を引き起すと、女は歩けないからオブっておくれと言います。

桜の森の満開の下坂口 安吾

山賊は承知承知と女を軽々と背負って歩きましたが、けわしい登り坂へきて、

桜の森の満開の下坂口 安吾

ここは危いから降りて歩いて貰おうと言っても、女はしがみついて厭々、

桜の森の満開の下坂口 安吾

厭ヨ、と言って降りません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前のような山男が苦しがるほどの坂道をどうして私が歩けるものか、考えてごらんよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「そうか、そうか、よしよし」と男は疲れて苦しくても好機嫌でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「でも、一度だけ降りておくれ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私は強いのだから、苦しくて、一休みしたいというわけじゃないぜ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

眼の玉が頭の後側にあるというわけのものじゃないから、

桜の森の満開の下坂口 安吾

さっきからお前さんをオブっていてもなんとなくもどかしくて仕方がないのだよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

一度だけ下へ降りてかわいい顔を拝ましてもらいたいものだ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「厭よ、厭よ」と、又、女はやけに首っ玉にしがみつきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「私はこんな淋しいところに一っときもジッとしていられないヨ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お前のうちのあるところまで一っときも休まず急いでおくれ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

さもないと、私はお前の女房になってやらないよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私にこんな淋しい思いをさせるなら、私は舌を噛んで死んでしまうから」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「よしよし。分った。お前のたのみはなんでもきいてやろう」

桜の森の満開の下坂口 安吾

山賊はこの美しい女房を相手に未来のたのしみを考えて、とけるような幸福を感じました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は威張りかえって肩を張って、前の山、後の山、右の山、左の山、

桜の森の満開の下坂口 安吾

ぐるりと一廻転して女に見せて、

桜の森の満開の下坂口 安吾

「これだけの山という山がみんな俺のものなんだぜ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

と言いましたが、女はそんなことにはてんで取りあいません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は意外に又残念で、「いいかい。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お前の目に見える山という山、木という木、谷という谷、その谷からわく雲まで、

桜の森の満開の下坂口 安吾

みんな俺のものなんだぜ」「早く歩いておくれ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私はこんな岩コブだらけの崖の下にいたくないのだから」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「よし、よし。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今にうちにつくと飛びきりの御馳走をこしらえてやるよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前はもっと急げないのかえ。走っておくれ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「なかなかこの坂道は俺が一人でもそうは駈けられない難所だよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前も見かけによらない意気地なしだねえ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私としたことが、とんだ甲斐性かいしょなしの女房になってしまった。ああ、ああ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

これから何をたよりに暮したらいいのだろう」「なにを馬鹿な。

桜の森の満開の下坂口 安吾

これぐらいの坂道が」「アア、もどかしいねえ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お前はもう疲れたのかえ」「馬鹿なことを。

桜の森の満開の下坂口 安吾

この坂道をつきぬけると、鹿もかなわぬように走ってみせるから」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「でもお前の息は苦しそうだよ。顔色が青いじゃないか」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「なんでも物事の始めのうちはそういうものさ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今に勢いのはずみがつけば、お前が背中で目を廻すぐらい速く走るよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども山賊は身体が節々からバラバラに分かれてしまったように疲れていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そしてわが家の前へ辿たどりついたときには目もくらみ耳もなりしわがれ声のひときれをふりしぼる力もありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

家の中から七人の女房が迎えに出てきましたが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

山賊は石のようにこわばった身体をほぐして背中の女を下すだけで勢一杯でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

七人の女房は今迄に見かけたこともない女の美しさに打たれましたが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

女は七人の女房の汚さに驚きました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

七人の女房の中には昔はかなり綺麗な女もいたのですが今は見る影もありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女は薄気味悪がって男の背へしりぞいて、「この山女は何なのよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「これは俺の昔の女房なんだよ」と男は困って「昔の」

桜の森の満開の下坂口 安吾

という文句を考えついて加えたのはとっさの返事にしては良く出来ていましたが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

女は容赦がありません。「まア、これがお前の女房かえ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「それは、お前、俺はお前のような可愛いい女がいようとは知らなかったのだからね」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「あの女を斬り殺しておくれ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

女はいちばん顔形のととのった一人を指して叫びました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「だって、お前、殺さなくっとも、女中だと思えばいいじゃないか」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ」男の結ばれた口からうめきがもれました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男はとびあがるように一躍りして指された女を斬り倒していました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

然し、息つくひまもありません。「この女よ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今度は、それ、この女よ」男はためらいましたが、すぐズカズカ歩いて行って、女のくびへザクリとダンビラを斬りこみました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

首がまだコロコロととまらぬうちに、

桜の森の満開の下坂口 安吾

女のふっくらツヤのある透きとおる声は次の女を指して美しく響いていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「この女よ。今度は」

桜の森の満開の下坂口 安吾

指さされた女は両手に顔をかくしてキャーという叫び声をはりあげました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その叫びにふりかぶって、ダンビラは宙を閃いて走りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

残る女たちはにわかに一時に立上って四方に散りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「一人でも逃したら承知しないよ。やぶの陰にも一人いるよ。上手へ一人逃げて行くよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は血刀をふりあげて山の林を駈け狂いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

たった一人逃げおくれて腰をぬかした女がいました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それはいちばん醜くて、ビッコの女でしたが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

男が逃げた女を一人あまさず斬りすてて戻ってきて、無造作にダンビラをふりあげますと、

桜の森の満開の下坂口 安吾

「いいのよ。この女だけは。これは私が女中に使うから」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「ついでだから、やってしまうよ」「バカだね。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私が殺さないでおくれと言うのだよ」「アア、そうか。ほんとだ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は血刀を投げすてて尻もちをつきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

疲れがどッとこみあげて目がくらみ、土から生えた尻のように重みが分ってきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ふと静寂に気がつきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

とびたつような怖ろしさがこみあげ、ぎょッとして振向くと、

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女はそこにいくらかやる瀬ない風情でたたずんでいます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は悪夢からさめたような気がしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして、目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども男は不安でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分らぬのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、

桜の森の満開の下坂口 安吾

胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

アア、そうだ、あれだ。気がつくと彼はびっくりしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

どこが、何が、どんな風に似ているのだか分りません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども、何か、似ていることは、たしかでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼にはいつもそれぐらいのことしか分らず、それから先は分らなくても気にならぬたちの男でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

山の長い冬が終り、山のてっぺんの方や谷のくぼみに樹の陰に雪はポツポツ残っていましたが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

やがて花の季節が訪れようとして春のきざしが空いちめんにかがやいていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今年、桜の花が咲いたら、と、彼は考えました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

花の下にさしかかる時はまだそれほどではありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それで思いきって花の下へ歩きこみます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

だんだん歩くうちに気が変になり、前も後も右も左も、

桜の森の満開の下坂口 安吾

どっちを見ても上にかぶさる花ばかり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

森のまんなかに近づくと怖しさに盲滅法たまらなくなるのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今年はひとつ、あの花ざかりの林のまんなかで、ジッと動かずに、いや、

桜の森の満開の下坂口 安吾

思いきって地べたに坐ってやろう、と彼は考えました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そのとき、この女もつれて行こうか、彼はふと考えて、女の顔をチラと見ると、

桜の森の満開の下坂口 安吾

胸さわぎがして慌てて目をそらしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

自分のはらが女に知れては大変だという気持が、なぜだか胸に焼け残りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

★女は大変なわがまま者でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

どんなに心をこめた御馳走をこしらえてやっても、必ず不服を言いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は小鳥や鹿をとりに山を走りました。いのししも熊もとりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ビッコの女は木の芽や草の根をさがしてひねもす林間をさまよいました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

然し女は満足を示したことはありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「毎日こんなものを私に食えというのかえ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「だって、飛び切りの御馳走なんだぜ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お前がここへくるまでは、十日に一度ぐらいしかこれだけのものは食わなかったものだ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前は山男だからそれでいいのだろうさ。私ののどは通らないよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

こんなさびしい山奥で、夜の夜長にきくものと云えばふくろうの声ばかり、せめて食べる物でも都に劣らぬおいしい物が食べられないものかねえ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

都の風がどんなものか。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その都の風をせきとめられた私の思いのせつなさがどんなものか、

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お前には察しることも出来ないのだね。お前は私から都の風をもぎとって、その代りにお前のれた物といえばからすや梟の鳴く声ばかり。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お前はそれをはずかしいとも、むごたらしいとも思わないのだよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の怨じる言葉の道理が男には呑みこめなかったのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なぜなら男は都の風がどんなものだか知りません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

見当もつかないのです。この生活、この幸福に足りないものがあるという事実について思い当るものがない。彼はただ女の怨じる風情の切なさに当惑し、

桜の森の満開の下坂口 安吾

それをどのように処置してよいか目当に就て何の事実も知らないので、もどかしさに苦しみました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今迄には都からの旅人を何人殺したか知れません。都からの旅人は金持で所持品も豪華ですから、都は彼のよいかもで、

桜の森の満開の下坂口 安吾

せっかく所持品を奪ってみても中身がつまらなかったりするとチェッこの田舎者め、

桜の森の満開の下坂口 安吾

とか土百姓めとかののしったもので、つまり彼は都に就てはそれだけが知識の全部で、

桜の森の満開の下坂口 安吾

豪華な所持品をもつ人達のいるところであり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はそれをまきあげるという考え以外に余念はありませんでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

都の空がどっちの方角だということすらも、考えてみる必要がなかったのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女はくしだのこうがいだのかんざしだのべにだのを大事にしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼が泥の手や山の獣の血にぬれた手でかすかに着物にふれただけでも女は彼を叱りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

まるで着物が女のいのちであるように、そしてそれをまもることが自分のつとめであるように、

桜の森の満開の下坂口 安吾

身の廻りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その着物は一枚の小袖こそで細紐ほそひもだけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、

桜の森の満開の下坂口 安吾

そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れ流されて、

桜の森の満開の下坂口 安吾

色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は納得させられたのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている、

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは疑る余地がない、個としては意味をもたない不完全かつ不可解な

桜の森の満開の下坂口 安吾

断片が集まることによって一つの物を完成する、

桜の森の満開の下坂口 安吾

その物を分解すれば無意味なる断片に帰する、

桜の森の満開の下坂口 安吾

それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させられたのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は山の木を切りだして女の命じるものを作ります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

何物が、そして何用につくられるのか、

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼自身それを作りつつあるうちは知ることが出来ないのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは胡床こしょう肱掛ひじかけでした。胡床はつまり椅子です。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お天気の日、女はこれを外へ出させて、日向ひなたに、又、木陰に、腰かけて目をつぶります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

部屋の中では肱掛にもたれて物思いにふけるような、そしてそれは、

桜の森の満開の下坂口 安吾

それを見る男の目にはすべてが異様な、なまめかしく、なやましい姿に外ならぬのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

魔術は現実に行われており、彼自らがその魔術の助手でありながら、その行われる魔術の結果に常にいぶかりそして嘆賞するのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ビッコの女は朝毎に女の長い黒髪をくしけずります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そのために用いる水を、男は谷川の特に遠い清水からくみとり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして特別そのように注意を払う自分の労苦をなつかしみました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

自分自身が魔術の一つの力になりたいということが男の願いになっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして彼自身くしけずられる黒髪にわが手を加えてみたいものだと思います。

桜の森の満開の下坂口 安吾

いやよ、そんな手は、と女は男を払いのけて叱ります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は子供のように手をひっこめて、てれながら、黒髪にツヤが立ち、

桜の森の満開の下坂口 安吾

結ばれ、そして顔があらわれ、一つの美が描かれ生まれてくることを見果てぬ夢に思うのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「こんなものがなア」

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は模様のある櫛や飾のある笄をいじり廻しました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは彼が今迄は意味も値打もみとめることのできなかったものでしたが、今もなお、物と物との調和や関係、飾りという意味の批判はありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども魔力が分ります。魔力は物のいのちでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

物の中にもいのちがあります。「お前がいじってはいけないよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なぜ毎日きまったように手をだすのだろうね」「不思議なものだなア」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「何が不思議なのさ」「何がってこともないけどさ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

と男はてれました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼には驚きがありましたが、その対象は分らぬのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして男に都を怖れる心が生れていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その怖れは恐怖ではなく、知らないということに対する羞恥と不安で、

桜の森の満開の下坂口 安吾

物知りが未知の事柄にいだく不安と羞恥に似ていました。女が「都」

桜の森の満開の下坂口 安吾

というたびに彼の心はおびおののきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども彼は目に見える何物も怖れたことがなかったので、

桜の森の満開の下坂口 安吾

怖れの心になじみがなく、羞じる心にも馴れていません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして彼は都に対して敵意だけをもちました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

何百何千の都からの旅人を襲ったが手に立つ者がなかったのだから、と彼は満足して考えました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

どんな過去を思いだしても、裏切られ傷けられる不安がありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それに気附くと、彼は常に愉快で又誇りやかでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は女の美に対して自分の強さを対比しました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして強さの自覚の上で多少の苦手と見られるものは猪だけでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その猪も実際はさして怖るべき敵でもないので、彼はゆとりがありました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「都には牙のある人間がいるかい」「弓をもったサムライがいるよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「ハッハッハ。弓なら俺は谷の向うの雀の子でも落すのだからな。

桜の森の満開の下坂口 安吾

都には刀が折れてしまうような皮の堅い人間はいないだろう」

桜の森の満開の下坂口 安吾

よろいをきたサムライがいるよ」「鎧は刀が折れるのか」「折れるよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「俺は熊も猪も組み伏せてしまうのだからな」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前が本当に強い男なら、私を都へ連れて行っておくれ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お前の力で、私の欲しい物、都の粋を私の身の廻りへ飾っておくれ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして私にシンから楽しい思いを授けてくれることができるなら、お前は本当に強い男なのさ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「わけのないことだ」男は都へ行くことに心をきめました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は都にありとある櫛や笄や簪や着物や鏡や紅を三日三晩とたたないう

桜の森の満開の下坂口 安吾

ちに女の廻りへ積みあげてみせるつもりでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

何の気がかりもありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

一つだけ気にかかることは、まったく都に関係のない別なことでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは桜の森でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

二日か三日の後に森の満開が訪れようとしていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今年こそ、彼は決意していました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

桜の森の花ざかりのまんなかで、身動きもせずジッと坐っていてみせる。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は毎日ひそかに桜の森へでかけてつぼみのふくらみをはかっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

あと三日、彼は出発を急ぐ女に言いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前に支度の面倒があるものかね」と女は眉をよせました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「じらさないでおくれ。都が私をよんでいるのだよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「それでも約束があるからね」「お前がかえ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

この山奥に約束した誰がいるのさ」「それは誰もいないけれども、ね。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども、約束があるのだよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「それはマア珍しいことがあるものだねえ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

誰もいなくって誰と約束するのだえ」男は嘘がつけなくなりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「桜の花が咲くのだよ」「桜の花と約束したのかえ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「桜の花が咲くから、それを見てから出掛けなければならないのだよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「どういうわけで」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「だから、なぜ行って見なければならないのよ」「花が咲くからだよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「花が咲くから、なぜさ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「花の下は冷めたい風がはりつめているからだよ」「花の下にかえ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「花の下ははてがないからだよ」「花の下がかえ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は分らなくなってクシャクシャしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「私も花の下へ連れて行っておくれ」「それは、だめだ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

男はキッパリ言いました。「一人でなくちゃ、だめなんだ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

女は苦笑しました。男は苦笑というものを始めて見ました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そんな意地の悪い笑いを彼は今まで知らなかったのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そしてそれを彼は「意地の悪い」

桜の森の満開の下坂口 安吾

という風には判断せずに、刀で斬っても斬れないように、と判断しました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その証拠には、苦笑は彼の頭にハンをしたように刻みつけられてしまったからです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは刀の刃のように思いだすたびにチクチク頭をきりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして彼がそれを斬ることはできないのでした。三日目がきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はひそかに出かけました。桜の森は満開でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

一足ふみこむとき、彼は女の苦笑を思いだしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それだけでもう彼は混乱していました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

花の下の冷めたさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼の身体はたちまちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、

桜の森の満開の下坂口 安吾

すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は走りました。何という虚空でしょう。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして、花の下をぬけだしたことが分ったとき、夢の中から我にかえった同じ気持を見出しました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

夢と違っていることは、本当に息も絶え絶えになっている身の苦しさでありました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

★男と女とビッコの女は都に住みはじめました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は夜毎に女の命じる邸宅へ忍び入りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

着物や宝石や装身具も持ちだしましたが、それのみが女の心を充たす物ではありませんでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の何より欲しがるものは、その家に住む人の首でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼等の家にはすでに何十の邸宅の首が集められていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

部屋の四方の衝立ついたてに仕切られて首は並べられ、ある首はつるされ、

桜の森の満開の下坂口 安吾

男には首の数が多すぎてどれがどれやら分らなくとも、女は一々覚えており、

桜の森の満開の下坂口 安吾

すでに毛がぬけ、肉がくさり、白骨になっても、どこのたれということを覚えていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男やビッコの女が首の場所を変えると怒り、ここはどこの家族、

桜の森の満開の下坂口 安吾

ここは誰の家族とやかましく言いました。女は毎日首遊びをしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

首は家来をつれて散歩にでます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

首の家族へ別の首の家族が遊びに来ます。首が恋をします。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の首が男の首をふり、又、男の首が女の首をすてて女の首を泣かせることもありました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

姫君の首は大納言の首にだまされました。大納言の首は月のない夜、姫君の首の恋する人の首のふりをして忍んで行ってちぎりを結びます。契りの後に姫君の首が気がつきます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

姫君の首は大納言の首を憎むことができず我が身のさだめの悲しさに泣いて、尼になるのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

すると大納言の首は尼寺へ行って、尼になった姫君の首を犯します。

桜の森の満開の下坂口 安吾

姫君の首は死のうとしますが大納言のささやきに負けて尼寺を逃げて山科やましなの里へかくれて大納言の首のかこい者となって髪の毛を生やします。

桜の森の満開の下坂口 安吾

姫君の首も大納言の首ももはや毛がぬけ肉がくさりウジ虫がわき骨がのぞけていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

二人の首は酒もりをして恋にたわぶれ、歯の骨と歯の骨と噛み合ってカチカチ鳴り、

桜の森の満開の下坂口 安吾

くさった肉がペチャペチャくっつき合い鼻もつぶれ目の玉もくりぬけていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ペチャペチャとくッつき二人の顔の形がくずれるたびに女は大喜びで、

桜の森の満開の下坂口 安吾

けたたましく笑いさざめきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「ほれ、ホッペタを食べてやりなさい。ああおいしい。

桜の森の満開の下坂口 安吾

姫君の喉もたべてやりましょう。ハイ、目の玉もかじりましょう。

桜の森の満開の下坂口 安吾

すすってやりましょうね。ハイ、ペロペロ。アラ、おいしいね。

桜の森の満開の下坂口 安吾

もう、たまらないのよ、ねえ、ほら、ウンとかじりついてやれ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

女はカラカラ笑います。綺麗きれいな澄んだ笑い声です。薄い陶器が鳴るような爽やかな声でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

坊主の首もありました。坊主の首は女に憎がられていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

いつも悪い役をふられ、憎まれて、なぶり殺しにされたり、役人に処刑されたりしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

坊主の首は首になって後にかえって毛が生え、やがてその毛もぬけてくさりはて、白骨になりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

白骨になると、女は別の坊主の首を持ってくるように命じました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

新しい坊主の首はまだうら若い水々しい稚子ちごの美しさが残っていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女はよろこんで机にのせ酒をふくませ頬ずりしてめたりくすぐったりしましたが、じきあきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「もっと太った憎たらしい首よ」女は命じました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は面倒になって五ツほどブラさげて来ました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ヨボヨボの老僧の首も、眉の太い頬っぺたの厚い、かえるがしがみついているような鼻の形の顔もありました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

耳のとがった馬のような坊主の首も、ひどく神妙な首の坊主もあります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども女の気に入ったのは一つでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは五十ぐらいの大坊主の首で、ブ男で目尻がたれ、頬がたるみ、

桜の森の満開の下坂口 安吾

唇が厚くて、その重さで口があいているようなだらしのない首でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女はたれた目尻の両端を両手の指の先で押えて、クリクリと吊りあげて廻したり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

獅子鼻ししばなの孔へ二本の棒をさしこんだり、逆さに立ててころがしたり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

だきしめて自分のお乳を厚い唇の間へ押しこんでシャブらせたりして大笑いしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれどもじきにあきました。美しい娘の首がありました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

清らかな静かな高貴な首でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

子供っぽくて、そのくせ死んだ顔ですから妙に大人びた憂いがあり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

閉じられたマブタの奥に楽しい思いも悲しい思いもマセた思いも一度に

桜の森の満開の下坂口 安吾

ゴッちゃに隠されているようでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女はその首を自分の娘か妹のように可愛がりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

黒い髪の毛をすいてやり、顔にお化粧してやりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ああでもない、こうでもないと念を入れて、

桜の森の満開の下坂口 安吾

花の香りのむらだつようなやさしい顔が浮きあがりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

娘の首のために、一人の若い貴公子の首が必要でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

貴公子の首も念入りにお化粧され、二人の若者の首は燃え狂うような恋の遊びにふけります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

すねたり、怒ったり、憎んだり、嘘をついたり、だましたり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

悲しい顔をしてみせたり、けれども二人の情熱が一度に燃えあがるとき

桜の森の満開の下坂口 安吾

は一人の火がめいめい他の一人を焼きこがしてどっちも焼かれて舞いあ

桜の森の満開の下坂口 安吾

がる火焔になって燃えまじりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども間もなく悪侍だの色好みの大人だの悪僧だの汚い首が邪魔にでて、

桜の森の満開の下坂口 安吾

貴公子の首は蹴られて打たれたあげくに殺されて、

桜の森の満開の下坂口 安吾

右から左から前から後から汚い首がゴチャゴチャ娘に挑みかかって、

桜の森の満開の下坂口 安吾

娘の首には汚い首の腐った肉がへばりつき、牙のような歯に食いつかれ、

桜の森の満開の下坂口 安吾

鼻の先が欠けたり、毛がむしられたりします。

桜の森の満開の下坂口 安吾

すると女は娘の首を針でつついて穴をあけ、小刀で切ったり、えぐったり、

桜の森の満開の下坂口 安吾

誰の首よりも汚らしい目も当てられない首にして投げだすのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は都を嫌いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

都の珍らしさも馴れてしまうと、なじめない気持ばかりが残りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼も都では人並に水干すいかんを着てもすねをだして歩いていました。白昼は刀をさすことも出来ません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

市へ買物に行かなければなりませんし、白首のいる居酒屋で酒をのんでも金を払わねばなりません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

市の商人は彼をなぶりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

野菜をつんで売りにくる田舎女も子供までなぶりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

白首も彼を笑いました。都では貴族は牛車で道のまんなかを通ります。

桜の森の満開の下坂口 安吾

水干をきた跣足はだしの家来はたいがいふるまい酒に顔を赤くして威張りちらして歩いて行きました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はマヌケだのバカだのノロマだのと市でも路上でもお寺の庭でも怒鳴られました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それでもうそれぐらいのことには腹が立たなくなっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は何よりも退屈に苦しみました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

人間共というものは退屈なものだ、と彼はつくづく思いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はつまり人間がうるさいのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

大きな犬が歩いていると、小さな犬が吠えます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は吠えられる犬のようなものでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はひがんだりねたんだりすねたり考えたりすることが嫌いでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

山の獣や樹や川や鳥はうるさくはなかったがな、と彼は思いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「都は退屈なところだなア」と彼はビッコの女に言いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前は山へ帰りたいと思わないか」「私は都は退屈ではないからね」

桜の森の満開の下坂口 安吾

とビッコの女は答えました。ビッコの女は一日中料理をこしらえ洗濯し近所の人達とおしゃべりしていました。「都ではお喋りができるから退屈しないよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私は山は退屈で嫌いさ」「お前はお喋りが退屈でないのか」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前は喋らないから退屈なのさ」「そんなことがあるものか。

桜の森の満開の下坂口 安吾

喋ると退屈するから喋らないのだ」「でも喋ってごらんよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

きっと退屈を忘れるから」「何を」「何でも喋りたいことをさ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「喋りたいことなんかあるものか」

桜の森の満開の下坂口 安吾

男はいまいましがってアクビをしました。都にも山がありました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

然し、山の上には寺があったり庵があったり、そして、そこにはかえって多くの人の往来がありました。山から都が一目に見えます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なんというたくさんの家だろう。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして、なんという汚い眺めだろう、と思いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は毎晩人を殺していることを昼は殆ど忘れていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なぜなら彼は人を殺すことにも退屈しているからでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

何も興味はありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

刀で叩くと首がポロリと落ちているだけでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

首はやわらかいものでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

骨の手応えはまったく感じることがないもので、大根を斬るのと同じようなものでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その首の重さの方が彼には余程意外でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼には女の気持が分るような気がしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

鐘つき堂では一人の坊主がヤケになって鐘をついています。

桜の森の満開の下坂口 安吾

何というバカげたことをやるのだろうと彼は思いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

何をやりだすか分りません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

こういう奴等と顔を見合って暮すとしたら、

桜の森の満開の下坂口 安吾

俺でも奴等を首にして一緒に暮すことを選ぶだろうさ、と思うのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども彼は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していたのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の欲望は、いわば常にキリもなく空を直線に飛びつづけている鳥のようなものでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

休むひまなく常に直線に飛びつづけているのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その鳥は疲れません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

常に爽快に風をきり、スイスイと小気味よく無限に飛びつづけているのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども彼はただの鳥でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

枝から枝を飛び廻り、たまに谷をわたるぐらいがせいぜいで、枝にとまってうたたねしている梟にも似ていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は敏捷びんしょうでした。全身がよく動き、よく歩き、動作は生き生きしていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼の心は然し尻の重たい鳥なのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は無限に直線に飛ぶことなどは思いもよらないのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は山の上から都の空を眺めています。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その空を一羽の鳥が直線に飛んで行きます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は無限を事実に於て納得することができません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼の頭は割れそうになりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは考えの疲れでなしに、考えの苦しさのためでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

家へ帰ると、女はいつものように首遊びにふけっていました。彼の姿を見ると、女は待ち構えていたのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「今夜は白拍子しらびょうしの首を持ってきておくれ。とびきり美しい白拍子の首だよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

舞いを舞わせるのだから。私が今様いまようを唄ってきかせてあげるよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

男はさっき山の上から見つめていた無限の明暗を思いだそうとしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

この部屋があのいつまでも涯のない無限の明暗のくりかえしの空の筈ですが、

桜の森の満開の下坂口 安吾

それはもう思いだすことができません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして女は鳥ではなしに、やっぱり美しいいつもの女でありました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども彼は答えました。「俺は厭だよ」女はびっくりしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そのあげくに笑いだしました。「おやおや。

桜の森の満開の下坂口 安吾

お前も臆病風に吹かれたの。お前もただの弱虫ね」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「そんな弱虫じゃないのだ」「じゃ、何さ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「キリがないから厭になったのさ」「あら、おかしいね。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なんでもキリがないものよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

毎日毎日ごはんを食べて、キリがないじゃないか。

桜の森の満開の下坂口 安吾

毎日毎日ねむって、キリがないじゃないか」「それと違うのだ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「どんな風に違うのよ」男は返事につまりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども違うと思いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それで言いくるめられる苦しさを逃れて外へ出ました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「白拍子の首をもっておいで」

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の声が後から呼びかけましたが、彼は答えませんでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はなぜ、どんな風に違うのだろうと考えましたが分りません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

だんだん夜になりました。彼は又山の上へ登りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

もう空も見えなくなっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は気がつくと、空が落ちてくることを考えていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

空が落ちてきます。彼は首をしめつけられるように苦しんでいました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

それは女を殺すことでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

空の無限の明暗を走りつづけることは、女を殺すことによって、とめることができます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして、空は落ちてきます。彼はホッとすることができます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

然し、彼の心臓には孔があいているのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼の胸から鳥の姿が飛び去り、掻き消えているのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

あの女が俺なんだろうか?

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか?

桜の森の満開の下坂口 安吾

と彼は疑りました。女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。

桜の森の満開の下坂口 安吾

俺は何を考えているのだろう?

桜の森の満開の下坂口 安吾

なぜ空を落さねばならないのだか、それも分らなくなっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

あらゆる想念が捉えがたいものでありました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして想念のひいたあとに残るものは苦痛のみでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

夜が明けました。彼は女のいる家へ戻る勇気が失われていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして数日、山中をさまよいました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ある朝、目がさめると、彼は桜の花の下にねていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その桜の木は一本でした。桜の木は満開でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は驚いて飛び起きましたが、それは逃げだすためではありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

なぜなら、たった一本の桜の木でしたから。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は鈴鹿の山の桜の森のことを突然思いだしていたのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

あの山の桜の森も花盛りにちがいありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はなつかしさに吾を忘れ、深い物思いに沈みました。山へ帰ろう。

桜の森の満開の下坂口 安吾

山へ帰るのだ。なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして、なぜ空を落すことなどを考え耽っていたのだろう?

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は悪夢のさめた思いがしました。救われた思いがしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今までその知覚まで失っていた山の早春の匂いが身にせまって強く冷めたく分るのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は家へ帰りました。女は嬉しげに彼を迎えました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「どこへ行っていたのさ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

無理なことを言ってお前を苦しめてすまなかったわね。

桜の森の満開の下坂口 安吾

でも、お前がいなくなってからの私の淋しさを察しておくれな」

桜の森の満開の下坂口 安吾

女がこんなにやさしいことは今までにないことでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男の胸は痛みました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

もうすこしで彼の決意はとけて消えてしまいそうです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

けれども彼は思い決しました。「俺は山へ帰ることにしたよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「私を残してかえ。そんなむごたらしいことがどうしてお前の心にむようになったのだろう」女の眼は怒りに燃えました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その顔は裏切られた口惜しさで一ぱいでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前はいつからそんな薄情者になったのよ」「だからさ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

俺は都がきらいなんだ」「私という者がいてもかえ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「俺は都に住んでいたくないだけなんだ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「でも、私がいるじゃないか。お前は私が嫌いになったのかえ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私はお前のいない留守はお前のことばかり考えていたのだよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の目に涙のしずくが宿りました。女の目に涙の宿ったのは始めてのことでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の顔にはもはや怒りは消えていました。つれなさをうらむ切なさのみがあふれていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「だってお前は都でなきゃ住むことができないのだろう。

桜の森の満開の下坂口 安吾

俺は山でなきゃ住んでいられないのだ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「私はお前と一緒でなきゃ生きていられないのだよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私の思いがお前には分らないのかねえ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の目は涙にぬれていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男の胸に顔を押しあてて熱い涙をながしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

涙の熱さは男の胸にしみました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

たしかに、女は男なしでは生きられなくなっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

新しい首は女のいのちでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そしてその首を女のためにもたらす者は彼の外にはなかったからです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は女の一部でした。女はそれを放すわけにいきません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男のノスタルジイがみたされたとき、再び都へつれもどす確信が女にはあるのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「でもお前は山で暮せるかえ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前と一緒ならどこででも暮すことができるよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「山にはお前の欲しがるような首がないのだぜ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

夢ではないかと男は疑りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

あまり嬉しすぎて信じられないからでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

夢にすらこんな願ってもないことは考えることが出来なかったのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼の胸は新な希望でいっぱいでした。その訪れは唐突で乱暴で、今のさっき迄の苦しい思いが、もはや捉えがたい彼方かなたへだてられていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はこんなにやさしくはなかった昨日までの女のことも忘れました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今と明日があるだけでした。二人は直ちに出発しました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ビッコの女は残すことにしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして出発のとき、女はビッコの女に向って、じき帰ってくるから待っておいで、

桜の森の満開の下坂口 安吾

とひそかに言い残しました。★目の前に昔の山々の姿が現れました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

呼べば答えるようでした。旧道をとることにしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その道はもう踏む人がなく、道の姿は消え失せて、ただの林、ただの山坂になっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その道を行くと、桜の森の下を通ることになるのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「ああ、いいとも」男は軽々と女を背負いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は始めて女を得た日のことを思いだしました。その日も彼は女を背負って峠のあちら側の山径やまみちを登ったのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その日も幸せで一ぱいでしたが、今日の幸せはさらに豊かなものでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「はじめてお前に会った日もオンブして貰ったわね」

桜の森の満開の下坂口 安吾

と、女も思いだして、言いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「俺もそれを思いだしていたのだぜ」男は嬉しそうに笑いました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

「ほら、見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

谷も木も鳥も雲まで俺の山さ。山はいいなあ。

桜の森の満開の下坂口 安吾

走ってみたくなるじゃないか。都ではそんなことはなかったからな」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「始めての日はオンブしてお前を走らせたものだったわね」

桜の森の満開の下坂口 安吾

「ほんとだ。ずいぶん疲れて、目がまわったものさ」

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は桜の森の花ざかりを忘れてはいませんでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

然し、この幸福な日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのものでしょうか。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は怖れていませんでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

まさしく一面の満開でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。

桜の森の満開の下坂口 安吾

土肌の上は一面に花びらがしかれていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

この花びらはどこから落ちてきたのだろう?

桜の森の満開の下坂口 安吾

なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見は

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るかす頭上にひろがっているからでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男は満開の花の下へ歩きこみました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。

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彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。

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にわかに不安になりました。とっさに彼は分りました。

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女が鬼であることを。

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突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。

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その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。男は走りました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。

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彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。

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そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、

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そして女はすでに息絶えていました。彼の目はかすんでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、

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それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。

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なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変らず矢張り女で、同じ女の屍体したいがそこに在るばかりだからでありました。彼の呼吸はとまりました。

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彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

女の屍体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。

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彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒労でした。

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彼はワッと泣きふしました。

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たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。

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そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。

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そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。

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四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

日頃のような怖れや不安は消えていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

いつまでもそこに坐っていることができます。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼はもう帰るところがないのですから。

桜の森の満開の下坂口 安吾

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」

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というものであったかも知れません。

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なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼自らが孤独自体でありました。彼は始めて四方を見廻しました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

頭上に花がありました。

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その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

ひそひそと花が降ります。それだけのことです。

桜の森の満開の下坂口 安吾

外には何の秘密もないのでした。

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ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。

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そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、

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すこしずつ分りかけてくるのでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、

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女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。

桜の森の満開の下坂口 安吾

あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

桜の森の満開の下坂口 安吾

桜の森の満開の下

坂口 安吾

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出典:青空文庫 図書カード No.42618
底本:『白痴・桜の森の満開の下』新潮文庫、新潮社