ゆめじゅうや
夢十夜(第一夜)
夏目 漱石 著
臨終の床にある美しい女が「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから」と言い残して息を引き取る。男は女の遺言に従い、真珠貝の破片で墓穴を掘り、星の欠片を墓標にして、長い長い百年の夜を待ち続ける。
全42画面で、一文ずつめくる名文読書。
書誌情報・読書目安
- 初出
- 1908(明治41)年
- 読了目安
- 約4分(全42画面)
- 文字遣い
- 新字新仮名
- 底本
- 底本:『夏目漱石全集6』ちくま文庫、筑摩書房
- 入力・校正
- 入力:林弘美 校正:もりみつじゅんじ
文章の目次
42 CHUNKS一
死の床の約束
- 01
こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。
↗ - 02
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。
↗ - 03
しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。
↗ - 04
その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。
↗ - 05
それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。
↗ - 06
すると女は黒い眼を眠そうに犍たまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
↗ - 07
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、
↗ - 08
そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。
↗ - 09
自分は黙って、顔を枕から離した。
↗ - 10
腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
↗ - 11
しばらくして、女がまたこう云った。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。
↗ - 12
また逢いに来ますから」自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
↗ - 13
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。
↗ - 14
それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。
↗
二
真珠貝の墓穴
- 15
――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
↗ - 16
自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待っていて下さい」
↗ - 17
と思い切った声で云った。「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
↗ - 18
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。
↗ - 19
静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。
↗ - 20
長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
↗ - 21
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。
↗ - 22
真珠貝は大きな滑かな縁の鋭どい貝であった。
↗ - 23
土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。
↗ - 24
湿った土の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。
↗ - 25
そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。
↗ - 26
掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
↗ - 27
それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。
↗ - 28
星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。
↗
三
百年と白百合
- 29
抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
↗ - 30
自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。
↗ - 31
大きな赤い日であった。
↗ - 32
それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。
↗ - 33
赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。
↗ - 34
二つとまた勘定した。
↗ - 35
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。
↗ - 36
勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。
↗ - 37
それでも百年がまだ来ない。
↗ - 38
しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。
↗ - 39
見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。
↗ - 40
と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
↗ - 41
そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな」
↗ - 42
とこの時始めて気がついた。
↗