MEKURMEKU
作品一覧今すぐ読む →
ドラマ青空文庫 図書カード No.1567

はしれめろす

走れメロス

太宰 治 著

暴君ディオニスに処刑を言い渡された熱血の青年メロス。妹の結婚式を挙げるため、親友セリヌンティウスを身代わりに立て、三日間の猶予を得る。豪雨、濁流、山賊、猛暑の疲労に抗いながら、メロスは夕陽の処刑場を目指してひた走る。
全326画面で、一文ずつめくる名文読書。

はじめから読む

書誌情報・読書目安

初出
1940(昭和15)年
読了目安
約9分(全326画面)
文字遣い
新字新仮名
底本
底本:『走れメロス』新潮文庫、新潮社
入力・校正
入力:富田倫生 校正:小林繁雄
青空文庫で確認する ↗

文章の目次

326 CHUNKS
CHAPTER

激怒と誓約

  1. 01

    メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。

  2. 02

    メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。

  3. 03

    けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

  4. 04

    きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたのシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。

  5. 05

    女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。

  6. 06

    この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿はなむことして迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。

  7. 07

    メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。

  8. 08

    先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。

  9. 09

    メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。

  10. 10

    今は此のシラクスの市で、石工をしている。

  11. 11

    その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。

  12. 12

    久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。

  13. 13

    歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。

  14. 14

    ひっそりしている。

  15. 15

    もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、

  16. 16

    夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。

  17. 17

    のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。

  18. 18

    しばらく歩いて老爺ろうやに逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。

  19. 19

    老爺は答えなかった。

  20. 20

    メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。

  21. 21

    老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

  22. 22

    「王様は、人を殺します。」「なぜ殺すのだ。」

  23. 23

    「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」

  24. 24

    「たくさんの人を殺したのか。」「はい、はじめは王様の妹婿さまを。

  25. 25

    それから、御自身のお世嗣よつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。

  26. 26

    それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」

  27. 27

    「おどろいた。国王は乱心か。」「いいえ、乱心ではございませぬ。

  28. 28

    人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。

  29. 29

    このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、

  30. 30

    人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。

  31. 31

    御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。

  32. 32

    きょうは、六人殺されました。」聞いて、メロスは激怒した。

  33. 33

    あきれた王だ。生かして置けぬ。」メロスは、単純な男であった。

  34. 34

    買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。

  35. 35

    たちまち彼は、巡邏じゅんらの警吏に捕縛された。

  36. 36

    調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。

  37. 37

    メロスは、王の前に引き出された。

  38. 38

    「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は蒼白そうはくで、眉間みけんしわは、刻み込まれたように深かった。

  39. 39

    「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。

  40. 40

    「おまえがか?」王は、憫笑びんしょうした。「仕方の無いやつじゃ。

  41. 41

    おまえには、わしの孤独がわからぬ。」「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁はんばくした。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。

  42. 42

    王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」

  43. 43

    「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。

  44. 44

    人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。

  45. 45

    信じては、ならぬ。」暴君は落着いてつぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」

  46. 46

    「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」

  47. 47

    こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」

  48. 48

    「だまれ、下賤げせんの者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。

  49. 49

    「口では、どんな清らかな事でも言える。

  50. 50

    わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。

  51. 51

    おまえだって、いまに、はりつけになってから、泣いてびたって聞かぬぞ。」「ああ、王は悧巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。

  52. 52

    命乞いなど決してしない。ただ、――」

  53. 53

    と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、

  54. 54

    私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。

  55. 55

    たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。

  56. 56

    三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」

  57. 57

    「ばかな。」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。「とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」

  58. 58

    「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。

  59. 59

    「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。

  60. 60

    妹が、私の帰りを待っているのだ。

  61. 61

    そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。

  62. 62

    私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。

  63. 63

    私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、

  64. 64

    あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑ほくそえんだ。生意気なことを言うわい。

  65. 65

    どうせ帰って来ないにきまっている。

  66. 66

    この嘘つきにだまされた振りして、放してやるのも面白い。

  67. 67

    そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。

  68. 68

    人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。

  69. 69

    世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。「願いを、聞いた。

  70. 70

    その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。

  71. 71

    おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。

  72. 72

    ちょっとおくれて来るがいい。

  73. 73

    おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」

  74. 74

    「なに、何をおっしゃる。」「はは。

  75. 75

    いのちが大事だったら、おくれて来い。

  76. 76

    おまえの心は、わかっているぞ。」メロスは口惜しく、地団駄じだんだ踏んだ。ものも言いたくなくなった。

  77. 77

    竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。

  78. 78

    暴君ディオニスの面前で、き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。

  79. 79

    メロスは、友に一切の事情を語った。

  80. 80

    セリヌンティウスは無言で首肯うなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。

  81. 81

    セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。

  82. 82

    初夏、満天の星である。

  83. 83

    メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。

  84. 84

    メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。

  85. 85

    よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊こんぱいの姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

  86. 86

    「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。

  87. 87

    「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。

  88. 88

    あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」

  89. 89

    妹は頬をあからめた。「うれしいか。綺麗きれいな衣裳も買って来た。

  90. 90

    さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。

  91. 91

    結婚式は、あすだと。」

  92. 92

    メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、

  93. 93

    祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

  94. 94

    眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。

  95. 95

    そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。

  96. 96

    婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄ぶどうの季節まで待ってくれ、と答えた。

  97. 97

    メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。

  98. 98

    婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。

  99. 99

    夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。

  100. 100

    結婚式は、真昼に行われた。

  101. 101

    新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、

  102. 102

    ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。

  103. 103

    祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌をうたい、手をった。メロスも、満面に喜色をたたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。

  104. 104

    祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。

  105. 105

    メロスは、一生このままここにいたい、と思った。

  106. 106

    この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。

  107. 107

    ままならぬ事である。

  108. 108

    メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。

CHAPTER

濁流と死闘

  1. 109

    あすの日没までには、まだ十分の時が在る。

  2. 110

    ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。

  3. 111

    その頃には、雨も小降りになっていよう。

  4. 112

    少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。

  5. 113

    メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。

  6. 114

    今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、「おめでとう。

  7. 115

    私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。

  8. 116

    眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。

  9. 117

    私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。

  10. 118

    おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。

  11. 119

    おまえも、それは、知っているね。

  12. 120

    亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。

  13. 121

    おまえに言いたいのは、それだけだ。

  14. 122

    おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」

  15. 123

    花嫁は、夢見心地で首肯うなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、

  16. 124

    「仕度の無いのはお互さまさ。

  17. 125

    私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。

  18. 126

    全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」

  19. 127

    花婿はみ手して、てれていた。

  20. 128

    メロスは笑って村人たちにも会釈えしゃくして、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

  21. 129

    眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。

  22. 130

    メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、

  23. 131

    これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。

  24. 132

    きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。

  25. 133

    そうして笑って磔の台に上ってやる。

  26. 134

    メロスは、悠々と身仕度をはじめた。

  27. 135

    雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。

  28. 136

    さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。

  29. 137

    私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。

  30. 138

    身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞かんねい邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。

  31. 139

    そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。

  32. 140

    若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。

  33. 141

    えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。

  34. 142

    村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨もみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。

  35. 143

    メロスはひたいの汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。

  36. 144

    妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。

  37. 145

    私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。

  38. 146

    まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。

  39. 147

    そんなに急ぐ必要も無い。

  40. 148

    ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気のんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。

  41. 149

    ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降っていた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。

  42. 150

    きのうの豪雨で山の水源地は氾濫はんらんし、濁流滔々とうとうと下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵こっぱみじん橋桁はしげたを跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。

  43. 151

    あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟けいしゅうは残らず浪にさらわれて影なく、渡守りの姿も見えない。

  44. 152

    流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。

  45. 153

    メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。

  46. 154

    「ああ、しずめたまえ、荒れ狂う流れを!時は刻々に過ぎて行きます。

  47. 155

    太陽も既に真昼時です。

  48. 156

    あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、

  49. 157

    あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」

  50. 158

    濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。

  51. 159

    浪は浪を呑み、捲き、あおり立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。

  52. 160

    今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。

  53. 161

    ああ、神々も照覧あれ!

  54. 162

    濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。

  55. 163

    メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、

  56. 164

    必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきときわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍れんびんを垂れてくれた。

  57. 165

    押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。

  58. 166

    ありがたい。

  59. 167

    メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。

  60. 168

    一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。

  61. 169

    ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、

  62. 170

    突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。「待て。」「何をするのだ。

  63. 171

    私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」

  64. 172

    「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」

  65. 173

    「私にはいのちの他には何も無い。

  66. 174

    その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」

  67. 175

    「その、いのちが欲しいのだ。」

  68. 176

    「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」

  69. 177

    山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒こんぼうを振り挙げた。

  70. 178

    メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、

  71. 179

    その棍棒を奪い取って、「気の毒だが正義のためだ!」

  72. 180

    と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむすきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石さすがに疲労し、折から午後の灼熱しゃくねつの太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈めまいを感じ、これではならぬ、

  73. 181

    と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。

  74. 182

    立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。

  75. 183

    ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天いだてん、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。

  76. 184

    今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。

  77. 185

    愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。

  78. 186

    おまえは、稀代きたいの不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身えて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。

  79. 187

    身体疲労すれば、精神も共にやられる。

  80. 188

    もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。

  81. 189

    約束を破る心は、みじんも無かった。

  82. 190

    神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。

  83. 191

    動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。

  84. 192

    ああ、できる事なら私の胸をち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。

  85. 193

    愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。

  86. 194

    けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。

  87. 195

    私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。

  88. 196

    私の一家も笑われる。私は友をあざむいた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。

  89. 197

    ああ、もう、どうでもいい。

  90. 198

    これが、私の定った運命なのかも知れない。

  91. 199

    セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。

  92. 200

    私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。

  93. 201

    いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。

  94. 202

    いまだって、君は私を無心に待っているだろう。

  95. 203

    ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。

  96. 204

    よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。

  97. 205

    友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。

  98. 206

    セリヌンティウス、私は走ったのだ。

  99. 207

    君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!

  100. 208

    私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。

  101. 209

    山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。

  102. 210

    私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。

  103. 211

    放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。

  104. 212

    だらしが無い。笑ってくれ。

  105. 213

    王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。

  106. 214

    おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。

  107. 215

    私は王の卑劣を憎んだ。

  108. 216

    けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。

  109. 217

    私は、おくれて行くだろう。

CHAPTER

日没の疾走

  1. 218

    王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。

  2. 219

    そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。

  3. 220

    地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。

  4. 221

    君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。

  5. 222

    いや、それも私の、ひとりよがりか?

  6. 223

    ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。

  7. 224

    村には私の家が在る。羊も居る。

  8. 225

    妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。

  9. 226

    正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。

  10. 227

    人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。

  11. 228

    ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。

  12. 229

    どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

  13. 230

    ふと耳に、潺々せんせん、水の流れる音が聞えた。

  14. 231

    そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。

  15. 232

    すぐ足もとで、水が流れているらしい。

  16. 233

    よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々こんこんと、何か小さくささやきながら清水が湧き出ているのである。

  17. 234

    その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。

  18. 235

    水を両手ですくって、一くち飲んだ。

  19. 236

    ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。

  20. 237

    行こう。肉体の疲労恢復かいふくと共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。

  21. 238

    わが身を殺して、名誉を守る希望である。

  22. 239

    斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。

  23. 240

    日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。

  24. 241

    少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。

  25. 242

    私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。

  26. 243

    死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。

  27. 244

    私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!

  28. 245

    メロス。私は信頼されている。私は信頼されている。

  29. 246

    先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。

  30. 247

    五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。

  31. 248

    メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。

  32. 249

    再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!

  33. 250

    私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。

  34. 251

    ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。

  35. 252

    私は生れた時から正直な男であった。

  36. 253

    正直な男のままにして死なせて下さい。

  37. 254

    路行く人を押しのけ、ねとばし、メロスは黒い風のように走った。

  38. 255

    野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬をとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。

  39. 256

    一団の旅人とっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。

  40. 257

    「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」

  41. 258

    ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。

  42. 259

    その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。

  43. 260

    愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。

  44. 261

    風態なんかは、どうでもいい。

  45. 262

    メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。

  46. 263

    呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。

  47. 264

    はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。

  48. 265

    塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。「ああ、メロス様。」

  49. 266

    うめくような声が、風と共に聞えた。「誰だ。」

  50. 267

    メロスは走りながら尋ねた。「フィロストラトスでございます。

  51. 268

    貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」

  52. 269

    その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。

  53. 270

    「もう、駄目でございます。むだでございます。

  54. 271

    走るのは、やめて下さい。もう、あのかたをお助けになることは出来ません。」「いや、まだ陽は沈まぬ。」

  55. 272

    「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。

  56. 273

    ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。

  57. 274

    ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

  58. 275

    「いや、まだ陽は沈まぬ。」

  59. 276

    メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。

  60. 277

    走るより他は無い。「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。

  61. 278

    いまはご自分のお命が大事です。

  62. 279

    あの方は、あなたを信じて居りました。

  63. 280

    刑場に引き出されても、平気でいました。

  64. 281

    王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、

  65. 282

    強い信念を持ちつづけている様子でございました。」

  66. 283

    「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。

  67. 284

    間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。

  68. 285

    私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

  69. 286

    ついて来い!フィロストラトス。」「ああ、あなたは気が狂ったか。

  70. 287

    それでは、うんと走るがいい。

  71. 288

    ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」

  72. 289

    言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。

  73. 290

    最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。

  74. 291

    何一つ考えていない。

  75. 292

    ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。

  76. 293

    陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、

  77. 294

    メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。「待て。

  78. 295

    その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。

  79. 296

    約束のとおり、いま、帰って来た。」

  80. 297

    と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、のどがつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。

  81. 298

    すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。

  82. 299

    メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、

  83. 300

    「私だ、刑吏!殺されるのは、私だ。メロスだ。

  84. 301

    彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。

  85. 302

    ゆるせ、と口々にわめいた。

  86. 303

    セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

  87. 304

    「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。

  88. 305

    ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。

  89. 306

    君がし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。

  90. 307

    殴れ。」

  91. 308

    セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯うなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑ほほえみ、「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。

  92. 309

    私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。

  93. 310

    生れて、はじめて君を疑った。

  94. 311

    君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

  95. 312

    メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。「ありがとう、友よ。」

  96. 313

    二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

  97. 314

    群衆の中からも、歔欷きょきの声が聞えた。

  98. 315

    暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、

  99. 316

    やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。

  100. 317

    信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。

  101. 318

    どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。

  102. 319

    どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

  103. 320

    どっと群衆の間に、歓声が起った。「万歳、王様万歳。」

  104. 321

    ひとりの少女が、のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。

  105. 322

    佳き友は、気をきかせて教えてやった。

  106. 323

    「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。

  107. 324

    早くそのマントを着るがいい。

  108. 325

    この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」

  109. 326

    勇者は、ひどく赤面した。(古伝説と、シルレルの詩から。)