走れメロス01 / 326

メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。

走れメロス太宰 治

メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。

走れメロス太宰 治

けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

走れメロス太宰 治

きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたのシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。

走れメロス太宰 治

女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。

走れメロス太宰 治

この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿はなむことして迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。

走れメロス太宰 治

メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。

走れメロス太宰 治

先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。

走れメロス太宰 治

メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。

走れメロス太宰 治

今は此のシラクスの市で、石工をしている。

走れメロス太宰 治

その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。

走れメロス太宰 治

久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。

走れメロス太宰 治

歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。

走れメロス太宰 治

ひっそりしている。

走れメロス太宰 治

もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、

走れメロス太宰 治

夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。

走れメロス太宰 治

のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。

走れメロス太宰 治

しばらく歩いて老爺ろうやに逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。

走れメロス太宰 治

老爺は答えなかった。

走れメロス太宰 治

メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。

走れメロス太宰 治

老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

走れメロス太宰 治

「王様は、人を殺します。」「なぜ殺すのだ。」

走れメロス太宰 治

「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」

走れメロス太宰 治

「たくさんの人を殺したのか。」「はい、はじめは王様の妹婿さまを。

走れメロス太宰 治

それから、御自身のお世嗣よつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。

走れメロス太宰 治

それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」

走れメロス太宰 治

「おどろいた。国王は乱心か。」「いいえ、乱心ではございませぬ。

走れメロス太宰 治

人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。

走れメロス太宰 治

このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、

走れメロス太宰 治

人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。

走れメロス太宰 治

御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。

走れメロス太宰 治

きょうは、六人殺されました。」聞いて、メロスは激怒した。

走れメロス太宰 治

あきれた王だ。生かして置けぬ。」メロスは、単純な男であった。

走れメロス太宰 治

買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。

走れメロス太宰 治

たちまち彼は、巡邏じゅんらの警吏に捕縛された。

走れメロス太宰 治

調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。

走れメロス太宰 治

メロスは、王の前に引き出された。

走れメロス太宰 治

「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は蒼白そうはくで、眉間みけんしわは、刻み込まれたように深かった。

走れメロス太宰 治

「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。

走れメロス太宰 治

「おまえがか?」王は、憫笑びんしょうした。「仕方の無いやつじゃ。

走れメロス太宰 治

おまえには、わしの孤独がわからぬ。」「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁はんばくした。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。

走れメロス太宰 治

王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」

走れメロス太宰 治

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。

走れメロス太宰 治

人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。

走れメロス太宰 治

信じては、ならぬ。」暴君は落着いてつぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」

走れメロス太宰 治

「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」

走れメロス太宰 治

こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」

走れメロス太宰 治

「だまれ、下賤げせんの者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。

走れメロス太宰 治

「口では、どんな清らかな事でも言える。

走れメロス太宰 治

わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。

走れメロス太宰 治

おまえだって、いまに、はりつけになってから、泣いてびたって聞かぬぞ。」「ああ、王は悧巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。

走れメロス太宰 治

命乞いなど決してしない。ただ、――」

走れメロス太宰 治

と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、

走れメロス太宰 治

私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。

走れメロス太宰 治

たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。

走れメロス太宰 治

三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」

走れメロス太宰 治

「ばかな。」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。「とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」

走れメロス太宰 治

「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。

走れメロス太宰 治

「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。

走れメロス太宰 治

妹が、私の帰りを待っているのだ。

走れメロス太宰 治

そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。

走れメロス太宰 治

私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。

走れメロス太宰 治

私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、

走れメロス太宰 治

あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑ほくそえんだ。生意気なことを言うわい。

走れメロス太宰 治

どうせ帰って来ないにきまっている。

走れメロス太宰 治

この嘘つきにだまされた振りして、放してやるのも面白い。

走れメロス太宰 治

そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。

走れメロス太宰 治

人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。

走れメロス太宰 治

世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。「願いを、聞いた。

走れメロス太宰 治

その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。

走れメロス太宰 治

おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。

走れメロス太宰 治

ちょっとおくれて来るがいい。

走れメロス太宰 治

おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」

走れメロス太宰 治

「なに、何をおっしゃる。」「はは。

走れメロス太宰 治

いのちが大事だったら、おくれて来い。

走れメロス太宰 治

おまえの心は、わかっているぞ。」メロスは口惜しく、地団駄じだんだ踏んだ。ものも言いたくなくなった。

走れメロス太宰 治

竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。

走れメロス太宰 治

暴君ディオニスの面前で、き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。

走れメロス太宰 治

メロスは、友に一切の事情を語った。

走れメロス太宰 治

セリヌンティウスは無言で首肯うなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。

走れメロス太宰 治

セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。

走れメロス太宰 治

初夏、満天の星である。

走れメロス太宰 治

メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。

走れメロス太宰 治

メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。

走れメロス太宰 治

よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊こんぱいの姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

走れメロス太宰 治

「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。

走れメロス太宰 治

「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。

走れメロス太宰 治

あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」

走れメロス太宰 治

妹は頬をあからめた。「うれしいか。綺麗きれいな衣裳も買って来た。

走れメロス太宰 治

さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。

走れメロス太宰 治

結婚式は、あすだと。」

走れメロス太宰 治

メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、

走れメロス太宰 治

祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

走れメロス太宰 治

眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。

走れメロス太宰 治

そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。

走れメロス太宰 治

婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄ぶどうの季節まで待ってくれ、と答えた。

走れメロス太宰 治

メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。

走れメロス太宰 治

婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。

走れメロス太宰 治

夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。

走れメロス太宰 治

結婚式は、真昼に行われた。

走れメロス太宰 治

新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、

走れメロス太宰 治

ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。

走れメロス太宰 治

祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌をうたい、手をった。メロスも、満面に喜色をたたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。

走れメロス太宰 治

祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。

走れメロス太宰 治

メロスは、一生このままここにいたい、と思った。

走れメロス太宰 治

この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。

走れメロス太宰 治

ままならぬ事である。

走れメロス太宰 治

メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。

走れメロス太宰 治

あすの日没までには、まだ十分の時が在る。

走れメロス太宰 治

ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。

走れメロス太宰 治

その頃には、雨も小降りになっていよう。

走れメロス太宰 治

少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。

走れメロス太宰 治

メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。

走れメロス太宰 治

今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、「おめでとう。

走れメロス太宰 治

私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。

走れメロス太宰 治

眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。

走れメロス太宰 治

私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。

走れメロス太宰 治

おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。

走れメロス太宰 治

おまえも、それは、知っているね。

走れメロス太宰 治

亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。

走れメロス太宰 治

おまえに言いたいのは、それだけだ。

走れメロス太宰 治

おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」

走れメロス太宰 治

花嫁は、夢見心地で首肯うなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、

走れメロス太宰 治

「仕度の無いのはお互さまさ。

走れメロス太宰 治

私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。

走れメロス太宰 治

全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」

走れメロス太宰 治

花婿はみ手して、てれていた。

走れメロス太宰 治

メロスは笑って村人たちにも会釈えしゃくして、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

走れメロス太宰 治

眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。

走れメロス太宰 治

メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、

走れメロス太宰 治

これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。

走れメロス太宰 治

きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。

走れメロス太宰 治

そうして笑って磔の台に上ってやる。

走れメロス太宰 治

メロスは、悠々と身仕度をはじめた。

走れメロス太宰 治

雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。

走れメロス太宰 治

さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。

走れメロス太宰 治

私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。

走れメロス太宰 治

身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞かんねい邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。

走れメロス太宰 治

そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。

走れメロス太宰 治

若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。

走れメロス太宰 治

えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。

走れメロス太宰 治

村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨もみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。

走れメロス太宰 治

メロスはひたいの汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。

走れメロス太宰 治

妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。

走れメロス太宰 治

私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。

走れメロス太宰 治

まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。

走れメロス太宰 治

そんなに急ぐ必要も無い。

走れメロス太宰 治

ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気のんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。

走れメロス太宰 治

ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降っていた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。

走れメロス太宰 治

きのうの豪雨で山の水源地は氾濫はんらんし、濁流滔々とうとうと下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵こっぱみじん橋桁はしげたを跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。

走れメロス太宰 治

あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟けいしゅうは残らず浪にさらわれて影なく、渡守りの姿も見えない。

走れメロス太宰 治

流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。

走れメロス太宰 治

メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。

走れメロス太宰 治

「ああ、しずめたまえ、荒れ狂う流れを!時は刻々に過ぎて行きます。

走れメロス太宰 治

太陽も既に真昼時です。

走れメロス太宰 治

あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、

走れメロス太宰 治

あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」

走れメロス太宰 治

濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。

走れメロス太宰 治

浪は浪を呑み、捲き、あおり立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。

走れメロス太宰 治

今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。

走れメロス太宰 治

ああ、神々も照覧あれ!

走れメロス太宰 治

濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。

走れメロス太宰 治

メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、

走れメロス太宰 治

必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきときわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍れんびんを垂れてくれた。

走れメロス太宰 治

押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。

走れメロス太宰 治

ありがたい。

走れメロス太宰 治

メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。

走れメロス太宰 治

一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。

走れメロス太宰 治

ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、

走れメロス太宰 治

突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。「待て。」「何をするのだ。

走れメロス太宰 治

私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」

走れメロス太宰 治

「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」

走れメロス太宰 治

「私にはいのちの他には何も無い。

走れメロス太宰 治

その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」

走れメロス太宰 治

「その、いのちが欲しいのだ。」

走れメロス太宰 治

「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」

走れメロス太宰 治

山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒こんぼうを振り挙げた。

走れメロス太宰 治

メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、

走れメロス太宰 治

その棍棒を奪い取って、「気の毒だが正義のためだ!」

走れメロス太宰 治

と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむすきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石さすがに疲労し、折から午後の灼熱しゃくねつの太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈めまいを感じ、これではならぬ、

走れメロス太宰 治

と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。

走れメロス太宰 治

立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。

走れメロス太宰 治

ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天いだてん、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。

走れメロス太宰 治

今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。

走れメロス太宰 治

愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。

走れメロス太宰 治

おまえは、稀代きたいの不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身えて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。

走れメロス太宰 治

身体疲労すれば、精神も共にやられる。

走れメロス太宰 治

もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。

走れメロス太宰 治

約束を破る心は、みじんも無かった。

走れメロス太宰 治

神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。

走れメロス太宰 治

動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。

走れメロス太宰 治

ああ、できる事なら私の胸をち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。

走れメロス太宰 治

愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。

走れメロス太宰 治

けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。

走れメロス太宰 治

私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。

走れメロス太宰 治

私の一家も笑われる。私は友をあざむいた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。

走れメロス太宰 治

ああ、もう、どうでもいい。

走れメロス太宰 治

これが、私の定った運命なのかも知れない。

走れメロス太宰 治

セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。

走れメロス太宰 治

私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。

走れメロス太宰 治

いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。

走れメロス太宰 治

いまだって、君は私を無心に待っているだろう。

走れメロス太宰 治

ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。

走れメロス太宰 治

よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。

走れメロス太宰 治

友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。

走れメロス太宰 治

セリヌンティウス、私は走ったのだ。

走れメロス太宰 治

君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!

走れメロス太宰 治

私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。

走れメロス太宰 治

山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。

走れメロス太宰 治

私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。

走れメロス太宰 治

放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。

走れメロス太宰 治

だらしが無い。笑ってくれ。

走れメロス太宰 治

王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。

走れメロス太宰 治

おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。

走れメロス太宰 治

私は王の卑劣を憎んだ。

走れメロス太宰 治

けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。

走れメロス太宰 治

私は、おくれて行くだろう。

走れメロス太宰 治

王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。

走れメロス太宰 治

そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。

走れメロス太宰 治

地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。

走れメロス太宰 治

君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。

走れメロス太宰 治

いや、それも私の、ひとりよがりか?

走れメロス太宰 治

ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。

走れメロス太宰 治

村には私の家が在る。羊も居る。

走れメロス太宰 治

妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。

走れメロス太宰 治

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。

走れメロス太宰 治

人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。

走れメロス太宰 治

ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。

走れメロス太宰 治

どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

走れメロス太宰 治

ふと耳に、潺々せんせん、水の流れる音が聞えた。

走れメロス太宰 治

そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。

走れメロス太宰 治

すぐ足もとで、水が流れているらしい。

走れメロス太宰 治

よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々こんこんと、何か小さくささやきながら清水が湧き出ているのである。

走れメロス太宰 治

その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。

走れメロス太宰 治

水を両手ですくって、一くち飲んだ。

走れメロス太宰 治

ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。

走れメロス太宰 治

行こう。肉体の疲労恢復かいふくと共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。

走れメロス太宰 治

わが身を殺して、名誉を守る希望である。

走れメロス太宰 治

斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。

走れメロス太宰 治

日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。

走れメロス太宰 治

少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。

走れメロス太宰 治

私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。

走れメロス太宰 治

死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。

走れメロス太宰 治

私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!

走れメロス太宰 治

メロス。私は信頼されている。私は信頼されている。

走れメロス太宰 治

先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。

走れメロス太宰 治

五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。

走れメロス太宰 治

メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。

走れメロス太宰 治

再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!

走れメロス太宰 治

私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。

走れメロス太宰 治

ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。

走れメロス太宰 治

私は生れた時から正直な男であった。

走れメロス太宰 治

正直な男のままにして死なせて下さい。

走れメロス太宰 治

路行く人を押しのけ、ねとばし、メロスは黒い風のように走った。

走れメロス太宰 治

野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬をとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。

走れメロス太宰 治

一団の旅人とっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。

走れメロス太宰 治

「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」

走れメロス太宰 治

ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。

走れメロス太宰 治

その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。

走れメロス太宰 治

愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。

走れメロス太宰 治

風態なんかは、どうでもいい。

走れメロス太宰 治

メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。

走れメロス太宰 治

呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。

走れメロス太宰 治

はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。

走れメロス太宰 治

塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。「ああ、メロス様。」

走れメロス太宰 治

うめくような声が、風と共に聞えた。「誰だ。」

走れメロス太宰 治

メロスは走りながら尋ねた。「フィロストラトスでございます。

走れメロス太宰 治

貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」

走れメロス太宰 治

その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。

走れメロス太宰 治

「もう、駄目でございます。むだでございます。

走れメロス太宰 治

走るのは、やめて下さい。もう、あのかたをお助けになることは出来ません。」「いや、まだ陽は沈まぬ。」

走れメロス太宰 治

「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。

走れメロス太宰 治

ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。

走れメロス太宰 治

ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

走れメロス太宰 治

「いや、まだ陽は沈まぬ。」

走れメロス太宰 治

メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。

走れメロス太宰 治

走るより他は無い。「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。

走れメロス太宰 治

いまはご自分のお命が大事です。

走れメロス太宰 治

あの方は、あなたを信じて居りました。

走れメロス太宰 治

刑場に引き出されても、平気でいました。

走れメロス太宰 治

王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、

走れメロス太宰 治

強い信念を持ちつづけている様子でございました。」

走れメロス太宰 治

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。

走れメロス太宰 治

間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。

走れメロス太宰 治

私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

走れメロス太宰 治

ついて来い!フィロストラトス。」「ああ、あなたは気が狂ったか。

走れメロス太宰 治

それでは、うんと走るがいい。

走れメロス太宰 治

ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」

走れメロス太宰 治

言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。

走れメロス太宰 治

最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。

走れメロス太宰 治

何一つ考えていない。

走れメロス太宰 治

ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。

走れメロス太宰 治

陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、

走れメロス太宰 治

メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。「待て。

走れメロス太宰 治

その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。

走れメロス太宰 治

約束のとおり、いま、帰って来た。」

走れメロス太宰 治

と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、のどがつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。

走れメロス太宰 治

すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。

走れメロス太宰 治

メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、

走れメロス太宰 治

「私だ、刑吏!殺されるのは、私だ。メロスだ。

走れメロス太宰 治

彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。

走れメロス太宰 治

ゆるせ、と口々にわめいた。

走れメロス太宰 治

セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

走れメロス太宰 治

「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。

走れメロス太宰 治

ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。

走れメロス太宰 治

君がし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。

走れメロス太宰 治

殴れ。」

走れメロス太宰 治

セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯うなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑ほほえみ、「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。

走れメロス太宰 治

私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。

走れメロス太宰 治

生れて、はじめて君を疑った。

走れメロス太宰 治

君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

走れメロス太宰 治

メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。「ありがとう、友よ。」

走れメロス太宰 治

二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

走れメロス太宰 治

群衆の中からも、歔欷きょきの声が聞えた。

走れメロス太宰 治

暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、

走れメロス太宰 治

やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。

走れメロス太宰 治

信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。

走れメロス太宰 治

どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。

走れメロス太宰 治

どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

走れメロス太宰 治

どっと群衆の間に、歓声が起った。「万歳、王様万歳。」

走れメロス太宰 治

ひとりの少女が、のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。

走れメロス太宰 治

佳き友は、気をきかせて教えてやった。

走れメロス太宰 治

「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。

走れメロス太宰 治

早くそのマントを着るがいい。

走れメロス太宰 治

この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」

走れメロス太宰 治

勇者は、ひどく赤面した。(古伝説と、シルレルの詩から。)

走れメロス太宰 治

走れメロス

太宰 治

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出典:青空文庫 図書カード No.1567
底本:『走れメロス』新潮文庫、新潮社