蜘蛛の糸01 / 64

ある日の事でございます。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

池の中に咲いているはすの花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色きんいろずいからは、何とも云えないにおいが、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

やがて御釈迦様はその池のふちに御佇おたたずみになって、水のおもておおっている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

この極楽の蓮池の下は、丁度地獄じごくの底に当って居りますから、水晶すいしようのような水を透き徹して、三途さんずの河や針の山の景色が、丁度のぞ眼鏡めがねを見るように、はっきりと見えるのでございます。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

するとその地獄の底に、犍陀多かんだたと云う男が一人、ほかの罪人と一しょにうごめいている姿が、御眼に止まりました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

この犍陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛くもが一匹、路ばたをって行くのが見えました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

そこで犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」

蜘蛛の糸芥川 竜之介

と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

そうしてそれだけの善い事をしたむくいには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

幸い、側を見ますと、翡翠ひすいのような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮しらはすの間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御おろしなさいました。こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた犍陀多かんだたでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすか嘆息たんそくばかりでございます。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦せめくに疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

ですからさすが大泥坊の犍陀多も、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったかわずのように、ただもがいてばかり居りました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

ところがある時の事でございます。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

何気なにげなく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛くもの糸が、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

犍陀多はこれを見ると、思わず手をって喜びました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

この糸にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

血の池に沈められる事もある筈はございません。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

こう思いましたから犍陀多かんだたは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくらあせって見た所で、容易に上へは出られません。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

ややしばらくのぼるうちに、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。

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犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

しめた。」と笑いました。

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ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限かずかぎりもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるでありの行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。

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犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦ばかのように大きな口をいたまま、眼ばかり動かして居りました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

自分一人でさえれそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数にんずの重みに堪える事が出来ましょう。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

もし万一途中でれたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎かんじんな自分までも、元の地獄へ逆落さかおとしに落ちてしまわなければなりません。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

そんな事があったら、大変でございます。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよとい上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」とわめきました。その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立ててれました。ですから犍陀多もたまりません。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

あっと云うもなく風を切って、独楽こまのようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終しじゅうをじっと見ていらっしゃいましたが、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

やがて犍陀多かんだたが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、

蜘蛛の糸芥川 竜之介

御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着とんじゃく致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足おみあしのまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えないい匂が、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽ももうひるに近くなったのでございましょう。

蜘蛛の糸芥川 竜之介

(大正七年四月十六日)

蜘蛛の糸芥川 竜之介

蜘蛛の糸

芥川 竜之介

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出典:青空文庫 図書カード No.92
底本:『芥川龍之介全集2』ちくま文庫、筑摩書房